カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「おはよう」~”会話を始めてもいいよ、ボクはキミと話したいんだ”という合図

 昔、何かで読んだ話ですが・・・
「ある夏の日、農家に蟄居していた大村益次郎(別の人かもしれない?)のところに、一人の農民が訪れ『暑いですねぇ』と声をかけたところ、大村は『夏とはそういうものだ』と答えて、勉学を続けた」
 これは大村の、ものに動じない、暑さにも揺らがない人格を示すエピソードとして紹介されていたものですが、正直なところ「それはないじゃないの?」というのが感想です。

「暑いですねえ」「夏とはそういうものだ」
「寒いですねェ」「冬とはそういうものだ」
「早いですねェ」「早くはない」

 では、みもふたもありません。
 挨拶とはもともとそういうものなのです。
「おはよう(早いですねェ)」
「こんにちは(今日は・・・)」
「こんばんは(今夜は・・・)」。
 外国語だって同じで、グッド・モーニングもグーテン・モルゲンも直訳すれば「良き朝」・・・だから何なんだよ? みたいな話です。
 これらはいずれも言葉の接ぎ穂であって、それ自体には何の意味もありません。

 ただし、これらの言葉を口にしてしまうと、そこから会話が始まる可能性が生まれます。
「おはよう(早いですね)」
「ああ、おはよう(あなたこそ早いですね)」
「これからどちらへ?」
「田んぼを見に行くんです」
「それはごくろうさま。ところで先日の・・・」
 といった具合です。
 つまり「おはよう」というのは
「会話を始めてもいいよ、ボクはキミと話したいんだよ」
という心のサインなのです。
 心を開いて「キミを受け入れるよ」と言っているのですから、言われた方は気持ちが悪いわけがありません。
 
 現在、「あいさつ運動」は全国で展開されていますが、根底には「あいさつをすることによってお互いを受け入れる関係をつくろう」という思いがあります。
「相手を受け入れる気持ちがなければ、あいさつをしなくてもよい」と考えるのではなく、あいさつをすることによってそうした気持ちをつくろうと考えるのです。