情けが人のためになる話

 昨日、稲田先生が家庭連絡をしているのを聞くともなく聞いていたのですが、それはこんな素敵な話でした。

 一昨日の美術の時間、1年1組の藤原くんが、道具の片付けに手間取っている中山くんの手助けをしたというのです。ご存知の通り、中山くんはそうしたことはなかなかうまく行かないお子さんなのです。

 それだけでも報告を受けた親御さんとしてはうれしいと思うのですが、手伝ってもらった中山君の日記にそのことが書かれており、またその内容がすばらしかったのでご両親のお喜びも大きかったのではないでしょうか。

中山君の日記に書かれていたのは、

今日は美術の片付けの時に藤原君に助けてもらいました、そして友だちっていいなと感じました ということ、そこまでならありきたりなのですが、続けてあったのは

「ぼくはいつも友だちに助けてもらってばかりいるので、今度からは片づけを早く始めて、助けてもらわなくてもできるようにしたいと思います」ということでした。

 

 若い頃、私はすべての子に同じことをするよう要求してきました。学校は「平等・公平」が最重要の価値ですから、ひとりでもきちんとできないと気がすまないのです。そんなにたいへんなことを要求しているわけでもないし、やらない一人を認めるのは他のがんばっている子に対して申し訳ない、そんな気持ちもありました。たとえ障害があっても、できる範囲で精一杯のことをすればいい、周囲が安易に手を出すべきではない、手助けみたいなことをすればいつまでもできないままじゃないかと、そんなふうにも考えていました。

 ところが、この事例は私たちに別の方向を教えます。

助けられる人間は必ずしも「助けてもらえるからいいや、またやってもらおう」というふうには進まないということです。別の言い方をすれば、温かく迎えられた人間は、今度は自分でがんばろうという気になるという、至極当たり前のことです。

 この話には更に付録があって、友だちの手助けに向かった藤原君の様子を見ていた別の生徒もそのことを日記に書いていました。

「今日、美術の時間の終わりに、藤原君と一緒に教室に戻ろうとしたら、藤原君が『ちょっと先に行っていて』と言って、片付けの終わっていない中山君を助けに行きました。ぼくはそのまま教室に戻ってしまったけど、あとになってやっぱりぼくも行けばよかったと思いました。今日は手助けに行けなかったけど、今度はぼくが誰かを助けてあげようと思いました」 藤原君が投げ込んだ思いやりという石が、水面に鮮やかに波紋を描いて広がっていく思いです。そしてそういうことをわざわざ電話で報せる稲田先生のすごさにも感心させられました。

私が生徒の家に電話をするのは、生徒が悪いことをしたときと、私自身が連絡ミスをしたときくらいだけだからです。