2009年に亡くなった忌野清志郎の初期の歌に「ぼくの好きな先生」というのがあります。
たばこを吸いながらいつでもつまらなそうに
たばこを吸いながらいつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいのあの部屋にいつも一人
たばこを吸いながらキャンバスに向かってた
ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん
ぼくと同じように職員室が嫌いで、でも劣等生のぼくのために説教してくれるステキなおじさん、という歌です。
しかしこの先生、「むかし許されたことでも今は許されない」という規格でみると“最低”ですよね。
校内でたばこを吸う。研究室とは言えどうやら始終くちにくわえているらしい。生徒の受動喫煙なんてさらさら気にする様子がない。
授業がないときは勤務時間内でも平気で自分の絵を描いている。授業が始まると美術室に行き気のない授業をして、終わると研究室に戻ってまた絵の続きを描く。
協調性もないようで職員室にも行かない。職員室には情報が充満していて、これといった理由がなくても行けばさまざまな情報が寄せられます。生徒の心配なことが発見されたり褒めてやれるネタが転がっていたり・・・しかしこの先生はそんなことにはまるで興味がない。
同僚が困っていても助けようとも思わない。そもそも人のそばにいないから困っていることにも気づかない。もちろん何かに困っても助けてもらおうと、思ったりもしない。同僚性などというものは全く関係ない。
口下手で気の利いたこと、適切なことも言えないから「困ったような顔をして」「口数も少なく叱る」、その程度のことしかできない。だから「おじさん」で、でも「ぼくの好きな先生」なのです。
一人の人間の中には立派で素晴らしいものがあり、同時に弱さや甘さやダメな部分がある、それが自然な姿です。しかし現代の教師はそうであってはいけません。説明責任がありますから、説明できる範囲で子どもの前に立たなければならないのです。
「教員の質の低下」という言葉を聞くと私はいつも、昔はたくさんいたこんなダメな先生たちのことを思い出します。
ストーブの前に椅子をもって行って座り、生徒に教科書を読ませているうちに眠ってしまった先生。成績が急降下した私のために、わざわざグラフ模造紙を細く切って急降下の様子を嬉しそうに見せてくれた先生、宿泊学習で宿に着いたとたんに酒盛りをして夕食に泥酔状態で出てきた学年の全担任、そして美術の先生は清志郎の歌と同じように、空いた時間はいつも自分の絵を描いていました。
煙草が悪いなんて十分に知っています。授業をきちんとしない先生がダメだということも分かります。子どものいる前で酒を飲んではいけません。
しかし私が教えてもらった先生たちの、そうした弱さ、ダメさ、甘さ、そうしたものにも十分な魅力があったことを、どうしても捨てがたいのです。