カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「幸せとは 朝起きて トーマスを踏むこと」~かけがえのないものが手元にあるという実感

終活でもないが、それとなく身辺の整理を始めた。
そして読みふける昔の原稿。
それにしても若いころは病んでいたものだ。
今はしかし確かに触ることのできる幸せが、手元にある。
という話。(写真:フォトAC)

【身辺整理をしながら昔の自分に出会う】

 まだ本格的な終活とかを考えているわけではないのですが、それとなく財産――というほどでもない預金などの残し方を考え、あるいは捨てることができずにいたどうでもいいような書籍についても、順次整理し始めています。衣服は体形の変化が手助けとなって、ほとんどを不用品にしてしまいましたから問題なし。釣り道具などの趣味の品々もだいぶ前から不用品の仲間入りです。
 しかし惜しいのは今日まで書いてきた様々な文章たち。だれか読んでくれるアテがあるわけでもなく、さりとてこのまま私が死んだら何かの印刷物と一緒に資源物にされたり、壊れたハードディスクの中に入ったまま取り出せない情報として忘れ去られるだけです。それではあまりにももったいない。
 もしかしたら孫かひ孫かその先の子孫かが、自分のルーツを探るうちに私にまでたどり着いて、
「ああ、昭和・平成のひとはこんなふうに物事を考えたのだ」
と、そうした理解の手助けにでもなるかもしれないので無碍に捨てるわけにもいかないのです。

 そこで印刷物になっているものを順次データ化し、ネットのあちこちに置き始めたのですが、何十年も前の文章となると書いている最中の迷いや思いはすべて消えて、純粋に文章として楽しんだり考察したりできます。
 そうやってみる10代20代の私の、なんと切なく悲しいことか――。例えば20代後半に書いた二つの小説の主人公は、物語の最初から最後まで迷いっぱなしで、カフカの「城」の主人公のように、途中からどこに向かっているのかさえも分からなくなってさまよい続けます。きっと病んでいたのですね。
 病んだままそのあと教員になって、そこでとんでもない現実に蹴られ、殴られ、とことん自分を思い知ることになります。それは私にとって結果的にとてもよいことでした。ようやく地に足をつけて歩けるようになったからです。

【幸せとは、朝起きてトーマスを踏むこと】

 テレビに出てくるタレントさんの中に、潔癖であることや逆に不潔であることを《売り》にしている人たちがいます。ただし潔癖な男性と不潔な女性は話題になるものの、その逆はあまり注目されません、世の中にはまだ《男性は不潔で女性はきれい好きが当たり前》とする固定観念もしくはジェンダーバイアスがあって、汚い男ときれい好きの女性は取り上げても面白くないのかもしれません。

 さらに言えば潔癖男子は賞味期限が長く、いつまでも話題にしてもらえるのに対して、汚ギャルタレントや汚部屋の住人女子は長持ちする感じがありません。例えばかつて渡辺直美さんや中村アンさんが汚いことで勇名を馳せたなどということはすでに忘れ去られているのに対して、坂上忍さんや有吉弘行さんの潔癖話はいつまでも取り上げてもらえます。さらに坂上さんや有吉さん、加えて今田耕司さんなどは、そうした異常な潔癖さゆえに結婚できないのだと、本人たちも言っていますし、世間の人たちもそう信じて面白がっています。それがすべてではないでしょうが、潔癖だから結婚できないというのは一部、当たっている面もあるのかもしれません。

 さて、この潔癖系非婚男子タレントの仲間に、かつて千原ジュニアという人がいました。結婚には向いていないと自ら公言し、夜な夜な若手芸人を引き連れて飲み歩くのを日常としていましたから、だれもが結婚などしないと思っていた2015年、突然入籍を発表し、いまや一児の父として一人前に息子自慢などしています。そのジュニアが、先日何かの折にこんなことをつぶやいたのです。
「幸せとは、朝起きて(機関車)トーマスを踏むこと」

 テレビのバラエティ番組「プレバト」で俳句名人まで上り詰めた人だけあって、言葉の選び方が抜群です。潔癖だった人が部屋の散らかっていることを喜ぶ、それこそが成長であり、幸せなのです。

【かけがえのない幸せが自分の手元にあるという幸せの実感】

 私自身はあの病んでいた10代・20代を経て教師となり、飛びぬけてやんちゃな中学生たちに無理やり地上へと引きずり降ろされ、結婚し、子どもが生まれ、家庭を経営するようになりました。大した家庭ではありませんが、それでもかけがえのない私の家族です。
 朝起きてそのかけがえのないものが、今も確実に自分の手の中にあると感じられること――それが幸せだとつくづく実感できるのも、あのなにもない若い時期にひたすら迷い歩き続けたおかげかもしれません。