カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「学校の勉強は、愛する誰かを助けるためにするものだ」~魔の11月をどうしのぐか③

 知識や技能は誰かを救うときに決定的に役にたつ。
 大勢を救えるのに、愛する人を助けられるのに、
 やり方を知らず、どうすることもできないとしたら、
 その時のキミの心の中は地獄だ。

という話。 

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(写真:フォトAC)
 
 

【困るのが自分だけなら、子どもはやらない】

 私は直接聞いたことはないのですが、ネットを見ていたりすると、
「何の役に立つか分からない勉強をなぜしなければならないのか」
とか、
「ボクは科学者になんかなる気がないから、理科なんか必要ない」
といった声が聞こえてきます。二つとも昔からの「定番」の声です。

 それに対して、
「将来、何が役に立つか、何が必要になるのかなんて、今から分かるものではない。だからやっておいた方がいいよ」
とか、
「人間の気持ちは変わる。科学者じゃなくても何かそれに近いものになりたくなることだってあるだろう。だからそんな日のために、今からやっておくことが大切なのだ」
とか言ってもあまり通用しません。

 将来はどうなるか分からないと言っても、今やっている勉強が役立っている自分とか、科学者になっている自分など、かけ離れすぎていて子どもにはピンと来ないのです。
 それに、やらなくて困るのが結局自分ひとりなら、やめたってかまわないと子どもたち思います。来ないかもしれない未来に備えて、今の苦痛を甘受するのはバカげたことだと思うのです。
 しかし誰かの、特に自分の愛する誰かのための準備だとしたら、これは案外いける筋なのかもしれません。何といっても子どもは“正義”が好きだからです。
 
 

【学校の勉強は、何の役に立つか分からないからやるものだ】

 とりあえず、ほぼ確実に言えるのは「いまの勉強が、将来の自分の子どもを助けるかもしれない」ということです。勉強がわからなくて困っている子を助けられるのは、家の中では親だけです。その親が小学生の問題も解けずに一緒に悩んでいるようでは、やはり問題でしょう。中学生の問題でもある程度は一緒に考えてやりたいものです。そがまったくできなくて、「ウチのパパはバカかもしれない」では、子どもの生きる意欲に関わります。

 我が子を含めて、自分の周囲の人間が将来何に困るのかは予測がつきません。
 今はインターネットがあるから何でも調べられる、だから知識を詰め込む必要はないなどと言う人もいますが、例えば友だちが病気になったとき、ネットで調べようとしてモニターに現れた難解な文章が、曲がりなりにも解釈できないと、何のために検索したのか分からなくなります。
 そこにちりばめられている、英語なのかラテン語なのかよくわからない外国語も、これは薬品か器具の名前だろうからそのままでいい、これは一般的な言葉らしいからいちおう調べておこう—―その程度の見分けができなければなかなか前には進めません。国語と外国語はしっかりやっておきましょう。

 大人になった友だちが仕事を失って明日の食事にも困っている――そのときキミはどうするだろう? どこかのレストランに連れて行って、「タダで食べさせてください」と一緒に頼むのかい? そうならないために社会科は必須だ。
 
 トイレ掃除をしていたはずの家人がバタッと倒れて意識を失った――もちろんキミは救急車を呼ぶことを思いつくだろう。でも、その救急車を呼ぶ電話番号って知っているかい? 知っているとして、固定電話なら問題ないけどスマホでかける場合、市外局番はいるのかな? いらないのかな?
 ところでその人はなぜ意識を失ったと思う? もちろん医者じゃないから分からないけど、トイレ掃除で倒れたのだよね、だったら救急車を呼ぶときにトイレに転がっている薬品の名前くらいは伝えた方がいいかもしれない、いや、家族がトイレで倒れたと気づいた瞬間、まずやらなければならないのは口と鼻を抑えて窓を開け、溜まっているかもしれない有毒ガスを外に出すことかもしれないよね。
 けれどトイレ掃除のときにいろいろな薬品を混ぜてはいけないことは、理科や家庭科をしっかり勉強しなかった人には分からないことかもしれない。保健体育の授業をいい加減にやっていたひとは救急車が来るまでの時間をただボーっと過ごし、家族が死ぬのを見ているだけなのかもしれない。人工呼吸とか心臓マッサージとか、やれることはたくさんあるのにね。

 さっきキミは「何の役に立つか分からないような勉強をなぜしなければならないのか」って言ったよね。けれどそれは逆で、学校の勉強は「何の役に立つか分からないからやらなくてはいけない」のだ。現在や将来の自分に役立つ、あるいは必要な勉強なら、わざわざ学校に来なくても自分でやれる。だって必要なのだもの。
 しかし「何の役に立つかわからない勉強」は、学校で学ばなければきっと一生やらない。もちろんやらなかったことで誰も助けられず、ほんとうに困ってしまえば別だけど、それって手遅れってことでしょ。それでいいの?
 
 

【では他は?】

 学校で学ぶことは、愛する誰かを守ったり助けたりするのに役立つ――キミにとってものすごく大切なその人を助ける場面で、知識や技術がないばかりに助けられなかったとしたら、キミの心は本当に地獄だ。だから今から、気が向かなくても、少しだけでも、がんばって勉強しておこう。

 え? それじゃあ数学や音楽や美術はどこで役に立つかって?
 そんなことは分からないよ。分かっていれば苦労しない。そこだけ勉強すればいいのだから。分からないから全部やる――。
「何の役に立つか分からないから、やらなくてはいけない」
って、今言ったばかりじゃないか。

(この稿、月曜日に続く)