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「実力より1割~2割程度上を目指す『けなげな子』の育成」~子どもが夢中になって勉強するようになるために③

スポーツの良さのひとつは能力が見えやすいこと、
凡人の限界は年齢が進むとはっきりと見えてくる。
しかし勉強の限界はなかなか見えてこない。それを丁寧に調べ、
1~2割上を目指させれば何の問題もないはずだ、

という話。(写真:フォトAC)

【スポーツの良さは実力の限界が見えやすいこと】

 大谷選手の野球人生は傍から見ると順風満帆、天井知らずの能力を全開させて不断に進化しているように見えます。努力のしがいもあるに違いありません。しかし凡夫は違います。

 子どものころの私は“駆けっこ(短距離走)”こそ遅いものの長距離は強いといった思い込みがあり、小学校4年生のときの第一回東京オリンピック男子マラソンで、日本の円谷幸吉選手がイギリスのヒートリー選手に競技場内で抜かれて銅メダルに終わったのを見て、いつか自分がオリンピックで金メダルを取って、復讐してやろうと固く誓ったものでした。
 そのためのジョギングも(かなりいいかげんなものであるにしても)始めることは始めました。ところが2年後、満を持して臨んだ運動会の6年男子マラソンでは、1位で入る予定が80名中13位。悪くない成績ですが1位でゴールする予定の私としては本当にがっかりでした。
 中学校では美術部。しかし体がウズウズして半年後からはバスケットボール部へ。その半年の遅れを凡夫が回復できるはずもなく、3年生になってからはレギュラーどころか補欠にも入れない始末。それでオリンピックもプロ・スポーツも(といっても当時はプロ野球と大相撲くらいしかありませんでしたが)諦めました。

 しかしこれは敗者の物語とか悲劇のストーリーとかいった話にはならないでしょう。たいていの人は多かれ少なかれ、スポーツで華々しく活躍する夢をどこかで諦めていくのです――というか、そもそもスポーツでメシを食おうなどと考えません。
 ある人は最初から運動が嫌いで、スポーツはできるだけ避けて生きて行きたいと思い、別の人は私のように中学校まで、能力の高い人は高校まで続け、それでも止まらずに済む人は大学や社会人スポーツ、プロ・スポーツと、さらに自分を確認し続ければいいのです。

【勉強も本来は同じ】

 勉強も本来は同じです。
 それぞれに基本的な能力に差がありますから、ある人は最初から「勉強はそこそこでいい」人生を計画し、ある人は高校受験まで頑張り続け、さらに大学、社会人と繰り返し試される中でやがてどこかで振り落とされ、学力競争から離脱することになります。
 現役で東京大学に入ったかつての地方エリートでも、やがて半数は今や平均点にも届かない学力弱者になっていることに気づかされます。なにしろ周囲は全員が東大生ですから。
 しかしここで敗者の側に立ったからといって、それが不幸かどうかは分かりません。ここで残ったものが勝者なのか「負け損ね」なのかは微妙なところです。「負け損ね」は相変わらず厳しい競争を続けなくてはならず、最終的な勝者はごく少数です。
 
 かつて「15歳の春を泣かせるな」とか言って高校の無試験全入制を訴えた人たちがいました。公立高校を公立小中学校のように学区別にしてしまえといった話です。しかしこれは選別を先送りにするだけの話で、夢を持たせるだけ持たせた上で、取り返しのつかないころになって「おまえは別の道で生きろ」と突っぱねる話です。
 ほんとうはもっと細かく吟味して、小学生のうちから、
「ああ、この子、算数は苦手だワ。数学者にはさせられない」
とか、
経理とか、数字を扱う仕事もダメかも知れんね」
とか、
「おやおや、この子、思ったよりおしゃべりがうまい。営業職か先生か」
とかいったふうに常にあれこれ考え、話し合い、良い方向へ導いて行けば何の問題もないはずです。それを点数だけ見て、やみくもに煽るから苦しい場面も出てきます。

【実力より1割~2割程度上を目指す「けなげな子」の育成】

 もちろん低いは低いなりに、その子の可能性はできるだけ伸ばしてやりたいのは人情でしょう。
 そのために必要なのは子どもの能力の見極めと、常に実力より1割~2割程度上を目指す「けなげな子」の育成です。5割増しを目指せば壊れるし、実力そこそこでしか力を出さない子の力は、1割程度の自然減で衰えていくしかないからです。
(この稿、続く)