カイト・カフェ

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「子どもたちの自由を追求しすぎる日本の学校は、しばしば子どもに不自由を強いる」~自由と不自由と安全・安心の物語④

 「自由に伸び伸びと育ってほしい――」
 多くの親たちが願う子の姿だ。
 ただし自由で伸び伸びとあるためには実力がなければならない。
 その実力を蓄えるために、子どもたちは不自由に耐えろと教師たちは言う。
という話。(写真:フォトAC)

【実力がなければ、自由に伸び伸びと生きることはできない】

 小学校の低学年の保護者に「どんなお子さんに育ってほしいと思っていますか?」と聞くと十中八九、「自由に伸び伸びと」、あるいはそれに類する答えが返ってきます。
「大人の顔色を見るような子には育ってほしくない」という言いかたが出る場合もありますが、私は内心《ひとの顔色をまったく読まない子は困りものだし、安定した子育てをしていればいちいち顔色を窺う子は育ったりしないだろう》と思ったりもします。
 さらに意地悪な気持ちになって「自由にのびのびと」を思い起こし、
《それって、とんでもない実力が必要だよね》
と心に呟くこともあります。
 考えても見てください。例えば中学校3年生のとき、私たちはどれくらい「自由で伸び伸び」できていたでしょう?

 私なんぞは成績が足らずに高校も自由に選べませんでしたし、部活ではユニフォームさえもらえませんでした。バスケ部でしたがヘタクソですから「自由で伸び伸びとしたプレー」というわけにもいきません。
 クラスに好きな女の子がいました。しかし全く相手にしてもらえず、誤解を恐れずに言えば同級生のめぼしい女の子たちは全員、たった3人のイケメンビッグ3に持っていかれてしまったのです。全く思うに任せません。
 なんと窮屈で不自由な青春だったことか!
 母が私に対して「自由で伸び伸びと育ってほしい」と願ったかどうかは知りませんが、もしそうだったとすると、本当に不孝な息子だったということになります。

 人間が自由であるためには実力が必要であり、実力があればあるほど自由の高まる世界もある――それが中学生のころ、痛切な後悔とともに私が手に入れたこの世の真理でした。

【日本の学校は子どもたちの自由を追求しすぎるため、しばしば児童生徒に不自由を強いることがある】

 今回「自由と不自由と安全・安心の物語」とサブタイトルをつけた一連の記事の第一回目は「フランスは自由な国だが極めて不自由な国だ」というお話でした。前半の「自由」が「束縛がない」という意味で、後半の「不自由」が「便利ではない」という意味なので文章として繋がるわけです。

 同じ言いかたを使って説明すると、「日本の学校は子どもたちの自由を追求しすぎるために、しばしば児童生徒に不自由を強いることがある」と言えます。
 この社会は実力があればあるほど自由でいられる――選択の自由、貧困からの自由、苦痛や苦労からの自由、思いのまま体を動かしたり仕事を回したりする自由、そうした自由を存分に手に入れさせるため、子どもには実力をつけてあげなければならない、そして――ここからが子どもと教師の利害の一致しなくなる部分なのですが――そのためには、遊んでいる暇はないだろう、髪の毛や服装に気を使っている時間はないだろう、我慢しろ、耐えろ、しっかり授業を聞き、しっかり練習して、将来、思いきり存分に自由に生きろ、好きに生きろ!――と、こうなるわけです。

 日本の教師たちは児童生徒の自由に多く制限を加えますが、特に強く制約をかけて絶対に認めないのが「自ら落ちていく自由」「自分自身の将来を、悪い意味で自己決定できる自由」です。「自己責任でやるならどんなことをしてもかまいません」とは決して言いません。
 その点で、高校のほとんど義務教育であるにもかかわらず1割もの中退者を出す彼の「自由の国」とは違うわけです。

 もちろん認めないと言っても自らいじめの加害者となる選択をする子どももいれば、危険を顧みず危ない場所に行ってケガをしたり亡くなったりする子もいます。その場合も学校は児童生徒に「自己責任」を押し付けることをせず、社会に向かっては学校の指導不足を謝ります。すべて学校の責任で、子どもは一切の責任から免除されているわけです。

 けれど社会は必ずしもそうした学校の在り方を認めないでしょう。もしかしたらこんなふうに言うのかもしれません。
「教師なんだから子どもたちに実力をつけるなんて当たり前だろう? 子どもたちを縛り付けることなく自由にして、その上で実力をつけて将来の自由も保障する、それが教師たる者の当然の責務ではないか――」
 もちろん「クジラは空を飛ぶ」と同じように、日本語としては間違った言いかたではありませんが、世の中にはできることとできないことがあります。
(この稿、終了)