カイト・カフェ

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「勉強はそこそこでいいが、必死に支えなくてはならない子もいる」~子どもが夢中になって勉強するようになるために④

 これから真の実力者が生き残る弱肉強食の時代が来るという。
 しかし焦ることもない。私のような凡夫は、
 好きな分野で身の丈に合った目標を立てて生きて行けばいいのだ。
 ただし必死に学校の勉強を支えなくてはならない子もいる。
という話。(写真:フォトAC)

【毎日試されるのはたまらない】

 大人になって何が幸せだったのかというと、定期テストや入学試験がなくなったことです。あれがあるばかりに私の生活はちっとも自律的なものにならず、常にテスト日から逆算して日程が組まれ、テスト範囲に対応してやるべきことが決められていました。しかも私は物覚えが悪いので、同じ学習をするにしてもひとの倍もかかったりします。倍もかけても覚えられないものは覚えられませんから、毎回のテストが敗戦、いや、日々の学習ノルマが達成できないという意味では毎日が“敗戦”のようなものでした。
 私にとって「勉強」は、読んで字のごとく「強いて勉める」苦行。頭のいい人たちの「どんどんできるので勉強が楽しくて楽しくてしかたない」といった状況とまったく異なり、達成感や成就感、自己効力感とは程遠いところにいたのです。
 
 大人になって安定したやりがいのある職と、支えがいのある家族をもって、すっかり落ち着いた生活を得た私は、その保証のもとでそこそこいい仕事をしたつもりでいます。良い人生だったとも考えています。しかしそれは時代が私に合っていただけで、今後、私のような人間は生きて行けないのかもしれません。

【やり直しの効く社会へ】

 「日本はやり直しの効かない国だ」という言い方がありました。
 高校入試、大学入試、就職試験、そのたびに選別され、捨てられ、一度捨てられると容易に回復できない。現在は労働市場も流動的になって来て、以前よりはやり直しが効くものの、それでも欧米に比べたら機会は極端に少ないというのです。
 
 しかし再チャレンジの機会に恵まれ、実力さえあればいくらでもやり直しの効く社会というのは、その「やり直し」に成功した者によって別の誰かが職や地位を奪われる社会ということです。常に研修と努力を重ね、力を誇示し続けないと、簡単に蹴落とされてしまう社会、手の中にあったものがあっという間に奪われてしまう社会、適者生存と自己責任の世界。確かにヘッド・ハンティングの盛んな欧米のこととして、よく聞く話です。
 そう考えると「やり直しのきなない日本の現状」を嘆く人たちは、自らの力に頼むところが多いのでしょうね。定期テストが苦手、入試が嫌いなどと言っている私などには、とうてい耐えられる世界ではありません。
 
 しかしその新しい社会の行きつく先は、少数の人々が弱肉強食の世界を切磋琢磨して生き残り、その競争力を土台として日本の経済や技術革新が維持・進化される。残った多数、「やり直し」が行われるたびに下位に沈んで行く私のような人間は、二度と浮かび上がってこられません。実力さえあればやり直しの効く社会は、実力のない者には奇貨家を与えませんし、「実力」は必ずしも努力で手に入るものではないからです。
 ただし力のない人たちでも、職のない貧乏人のままにしておくと社会不安を生み出しかねませんし、消費者としても頼りなく、経済発展の足かせになります。だから金だけは与えておこう――ベーシック・インカムの発想の中には、こうした強者の利益を守る考えが必ずあります。
 
 ではこれからの時代、凡庸な子どもをもった親たちは、どんなふうに子どもを育てて行けばいいのか。もちろんこれまでのように、大して頭のいいわけではない子どもの尻を叩いて、「学業成績を上げよ」「エリートの一角に食らいついて離すな」という訳にはいかないでしょう。学校も子どもに対して温いことを強制されていますし、家庭でも価値の押し付けがすんなりできる時代ではありません。

【好きな分野で身の丈に合った目標を立てて生きる】

 私は子どもにとっての学習を考えるとき、やってもできない、できないから頑張り切れない、そういった自分の経験をもとにしなくてはならないと思うのです。
 がんばってもできない子の成績の低さを、すべて努力不足のせいにしてしまうと学校の勉強はほんとうにつらい。100点満点で50点しか取れなかったテストを手に、自分は必要な努力の半分しかできなかったと考えるのはほんとうにシンドイのです。あれで半分だったとすると、どこまで頑張ればいいのか、とても手が届く気がしません。
 
 もちろん“自分は頭が悪いから半分しか取れなかった”と認めるのも楽なことではありませんが、「学校の学習(教科学習)」が人生のすべてではないでしょ。自分の好きな分野で身の丈に合った目標を立てて頑張れば、やたら傷を負わずに済みますし、うまく合えばかなり楽しい人生になるかもしれません。
 私が70年もかけて理解したことはそういった単純なことです。

【ただし、必死に学校の勉強を支えなくてはならない子もいる】

 ただしだからと言って学校における子ども学習に無頓着でいいということにはなりません。かなり必死に学校の勉強を支えなくてはならない子もいるのです。

 人は次のような文をどう読み取るでしょう?
「体育と、やはり好きだった美術以外の教科は、ほとんど成績は下位で、『康介の成績はオイッチニ、オイッチニだね』と笑ったことがあったほどです。でも、成績が悪くても、健康な体と健全な心を持って、人助けが出来たり、人に優しく出来る子になってほしい。男らしく、自分の力で生きていけるようになればいい。勉強だって、本人が本当にやらなくてはいけないと思う時期が来れば、きっと一生懸命やるだろう。私たちはそう考えていましたし、康介本人も、学業成績が良くないことで悩んでいる様子はまったくありませんでした。むしろ、堂々としていました」(両親悔恨の手記「息子が、なぜ」名古屋五千万円恐喝事件:文芸春秋 2001)
 2000年4月に発覚したいわゆる「名古屋・中学生5000万円恐喝事件」のルポルタージュから引用したものです
「康介の成績はオイッチニ、オイッチニだね」
というのは、評定が「1」と「2」ばかりだという意味でしょう。そう言って、
「笑ったことがあったほどです」
というのは、いかに両親が学校の成績で子どもを締め付けていなかったか、そんな冗談が言えるほどに親子関係は良好だったと、それらを主張したかったのでしょう。

 しかしこうした言葉に、神経が引きつったように感じられます。なぜならその子は、学校の勉強のほとんどが全く分かっていないのです。体育と美術以外の圧倒的な座学の時間を、ただ黙って、静かに、何もせずうつむいているのです。あるいは指名されないようにひたすら願っている、友だちから圧倒的に遅れてしまったことに耐えている、惨めな自分を見つめている、そういう状態が何日も何日も、そして何年も何年も続いてきたのです。
「学業成績が良くないことで悩んでいる様子はまったくありませんでした」
そんな時期はとうに過ぎてしまったのかもしれません。
「むしろ、堂々としていました」
 その虚勢がなぜわからないのか。

 そんな子こそ、気がついたらすぐに肩を寄せ、心を寄せて、寄り添って勉強を見てやらなくてはならないのです。それで成績は上がらなくても、「学業成績なんかよりもお前が大事だよ」という気持ちは伝わります。
 それを笑うなんて!
(この稿、終了)