「クソ食らえと思った平安貴族と、江戸の庶民の話」~ベルサイユ宮殿とふんどし③

 「うんこ漢字ドリル」がかなり売れているようだが、
 私たちはなぜ、かくもうんこが好きなのか。
 そこで今日は、
 平安時代に貴人のうんこを食べた男の話、
 江戸の庶民のうんこ事情について考える。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200702072708j:plain(「江戸の商家」フォトACより)

 【貴人のうんこを食べた男の話】

 一昨日、ベルサイユ宮殿にはほとんどトイレがなく、主流は移動式簡易トイレとオマルだったという話をしました。しかし11世紀の日本の宮中でも、基本は「樋殿」「樋箱」と呼ばれるこの携帯型トイレだったのです。

 これについては「今昔物語」の第30巻「平定文、本院の侍従に仮借する語」に次のような話があります。

 名うてのプレイボーイ平定文(あざなは平中)は光源氏も顔負けの美男子で、宮中では人妻も娘も、言い寄らぬものがなかったということだ。ただ、大臣藤原時平に仕える侍従の君だけは例外で、手紙に返事こそすれ適当にあしらうだけで、まったく相手にしてくれない。それどころか平中顔負けの手練手管でからかって遊ぶだけであった。

 弄ばれることにホトホト疲れた平中は、未練を絶つために思い切った行動に出る。内侍の君の排せつ物を見れば、さすがの自分も興ざめして、忘れることができるに違いないと考えたのである。
 そこで彼は配下を使って使用済みのオマルを強奪。部屋にこもって中身を見ようとするのだが、なんとそのオマルは金漆を塗った素晴らしいもので、包んであった布とともに中を見て幻滅するのが惜しくなるほどの逸品であった。けれど平中は意を決して蓋を開ける。

 ところが中にあった黄色の液体に浮かぶ三切ほどの物体は、何ともかぐわしい香りのする美しいもので、平中は思わず液体からすすってしまった。すると何とも薫り高い味が口の中に広がって、次に手近にあった木切れで個体を切り分けて舐めると、甘く、苦く、素晴らしい味がした。それでいずれもが数種の香を混ぜ合わせてつくった作り物であることが分かったのである。内侍の君は平中の計略を察知して、先回りしてそんなものを用意したのだ。
 そう考えると内侍の君の賢さにさらに心が揺さぶられ、平中はついに恋焦がれて死んでしまったのである。

「朝廷」という言葉があるように、平安貴族の政治(農民からの収奪の算段)は午前中で終了、午後から夜にかけては遊び惚けていましたからオマルひとつを取っても技巧を凝らし、どうでもいいことに熱心に取り組むのが貴族でした。
 行って直接話しかければいいのに、いちいち和歌に認めて送り合ったりする面倒くささはその代表です。また、迷信深くて、「十月は『神無月』、アラ? “かみなし月”なんて縁起でもない。こんな月に髪を洗って抜け落ちでもしたらかなわない」などと訳の分からないことを言い出して丸一カ月間洗髪しなかったりといったこともしますので、不潔この上ありません。
 ベルサイユ宮殿もかなり臭かったようですが日本の宮中も相当なもので、だから香道というものも生まれます。
 
 

【トイレは庶民が先】

 しかし一方、庶民の方は意外と清潔な暮らしをしていました。
 弥生時代にはすでに川に桟橋のように突き出た構造物で用を足す習慣があったようで、その遺構も発見されています。さらに時代が下ると家の中に水路を通した簡易水洗便所まであって便利この上ない。
「三尺流れれば水清し」と言うように、日本の急流は浄化作用が強く、川の汚染も気にしなくて済んだのです。

 鎌倉時代以降になると人の糞尿が肥料として使われるようになり、そのため農村ではかえってトイレの普及が進みます。一か所に溜めて熟成を待つようになったのです。
 もちろん都市部ではそういうわけにはいかず、庶民は庭に穴を掘って用を足していたみたいですが、それも街の規模が小さなうちだけで、戦国時代が終わって平和が訪れ、都市の規模が無制限に大きくなると限界を迎えます。

 俗に100万人都市と言われる江戸は開府(1603年)当初は15万人ほどの人口でしたが、その後100年あまりの間に一気に100万から120万人と言われる世界一の巨大都市となり、以後、幕末までその水準を保っています。もうそうなるととてもではありませんが市内では処理できなくなります。
 100万人の糞尿をどう処理したのかは大問題ですが、それを説明する前に江戸の町の構造自体について話しておかねばなりません。
 
 

【江戸100万人都市の庶民たち】

 江戸は自然発生的に大きくなったものではなく、奈良や京都と同じ計画都市です。家康は外敵が江戸城に近づくまでに渦巻き状に遠回りをしないと来られない構造にするとともに、町家は主として防火上の理由からかなり余裕のあるつくりにしました。

 道路幅は12m。これには買い物客が道の両側を行き来してものを選ぶ新京極のようなものを想像していた商人たちの猛反対を受けますが、構わず断行します。商用地は一町40丈四方と言いますから120m四方、これを道路で囲みます。碁盤に例えて縦横の線を道路と考えると、1マスが120m四方の町人の区画なのです。

 こんなにバカでかいものを与えられても困りますから、商人たちは区画の縁にそって「ロ」の字に2階建ての家を建て、1階部分を商店、2階部分を住居としました。これを「表長屋」と言います。
 残った空間には井戸を掘り(と言っても実際に掘ると海水が浸み出してきますから、ほとんどは上流から引いてきた地下水道の水)、共同便所を置きました。ほんとうに余裕のある広々とした空間でこれを「会所地」と言います。
 その会所地に、ある時期から人々が住み始めます。幾度かの大火のあと、町の防火施設が整い耐火建築も増えて、四方囲まれた会所地でも安全に住めるようになったからです。

 そこにつくられた長屋を、1棟をいくつかに割った住宅の様式から「棟割長屋」、一軒の大きさ(間口9尺《約2.7m》奥行きが2間《約3.6m》)から「九尺長屋」「二間長屋」、その位置から「裏長屋」と言ったりします。
 九尺二間の長屋というのは畳6畳の部屋とほぼ同じ大きさで、そのうち1畳半を土間に4畳半を部屋として区画するのが一般的でした。

 落語によく出てくる長屋の大家さん。これは土地や家屋の所有者ではなく、所有者に雇われた管理人です。「大家と言えば親も同然」と言いますが、生活全般なにくれと面倒を見てくれる人で、喧嘩の仲裁や家族のもめごとの相談に乗ったりもします。長屋に関する苦情処理もこの人の仕事ですが、初期の長屋で最も多かったクレームは共同便所の汲み取りが遅く、溢れて自分の家まで流れてきたといった話でした。
 ところがこれもある時期を境に、パタリとなくなりなります。大家さんがこまめに回収業者に連絡するようになったからです。
 そこで住民が怪しみます。あんなに熱心に汲み取りをするからには、何か理由があるに違いない、と。

(この稿、続く)