以前も書いたことですが、生徒指導、特に生徒の悪事を指導するときにいつも心がけたことがいくつかあります。
その第一は「事件に際しては事実を扱い、心を扱わない」ということです。
「日頃の態度が悪いからこうなった」とか「世の中を見るお前の見方が間違っている」とかいった話にしないということです。
事実を明らかにすることが一番大事であって、子どもが事実を明らかにし、謝罪し、あるいは罰を受けたらそれ以後は一切を忘れます。次の悪事に際しても以前のことは話題しません。
なぜならもう終息させてしまったことだからです。終わったことを持ち出されるのは終わらなかったと同じです。何をやっても永遠に終わらないとしたら、もう反省などする気がなくなってしまいます。
「罪を憎んで人を憎まず」というのはそういうことで、事件に際しては人格を問題とせず、極めて事務的に淡々と罪と罰の関係を履行します。心の問題は道徳やその他の時間、そして日々の声がけや懇談の中でやればいいのです。
もう一つ心がけたのは、「事実に語らせる」ということです。
いじめにしても万引きにしても、子どもたちの心の中には必ず何らかの言い訳があります。「だってあいつにだって悪いところがある」「だって俺だけじゃない」「学校が面白くなくてイライラしていた」。それらは客観的には全くの不条理なのですが、主観的には合理なのです。
ではどうしたらその主観的合理性を克服できるか―。
これは非常に簡単で、要するに事実を客観的に見させればいいのです。どうやるかと言うとそれは警察のやり方と同じで、“調書作成”に手間をかけるのです(私は教え子の万引き事件にかかわって調書の取り方を見ていましたが、やり方はテレビドラマで見るのと同じでした)。つまり、延々と同じ事実の確認をする。
「さあ、もう一度、最初からやってみよう」
というわけです。
どこで誰が何と言い、どういう動きをしてどうなった・・・それを果てしなく繰り返し、どんどん正確なものにしていく。その過程で主観的事実は自分から離れ、どんどん客観的になっていきます。そしてそれに連れて心の中にあった言い訳は効力を失い、客観的に見る“事実”そのものが行為の罪深さやおぞましさを強く訴え始めます。
おそらく警察の取り調べというのは、そうした技術を極限まで高め伝承させたものなのです。そうでなければ、確実に死刑になるような重大犯罪の容疑者が易々と自らの行為をしゃべったりしません。
学校においても同じで、何かの非違行為があったときはたっぷり時間を取って“事実”を丁寧に聞き出します。単に聞くだけではなく、このとき目指すのは「ありありとした映像」です。
そこで何が行われたのか、何が語られ、どうなったのか、私の頭の中のスクリーンにありありと浮かび、その時の匂いや風までもがまざまざと感じられるようになるまで話を続けます。
そして私の頭の中ですべてが鮮やかに見えるとき、悪事を働いた子どもの頭の中に浮かんでいるのも同じ“客観的事実”です。もう主観的事実のかけらもありません。説教などしないでも、子どもは自らの罪深さを知ります。
例えばいじめ事件でいえば、いじめに至った主観的事実が消え、いじめている自分と被害者の姿だけが見えてくるわけですから、普通はそれに耐えられません。
それが生徒指導の要諦です。