生徒指導の失敗のひとつは、情や道徳をからめることから始まります。そういうことが少なくありません。
罪と罰を定めた刑法にはそういうことはありません。例えば刑法199条に、
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
とあるように、法は殺人者に反省を求めません。殺人の是か非かも問いません。不可避だったか避けられたかも問題にしません。ただ冷徹に、人を殺したら死刑にするよ、もしくは5年以上の懲役にするよ、と言っているだけなのです。ここに道徳的要素を加えると、問題が複雑になりすぎるからです。
同じように生徒指導の場でも、子どもが自分の悪しき行いを認め、謝罪したらそれで終わりにしましょう。自分のやったことについて心を痛めるとか後悔するとかは、する場合もあればしない場合もあります。しかしそれでいいのです。その部分について教師は手を伸ばしきれません。
私たちがやらなければならない最低のことは「認めさせる」こと「謝罪させること」だけで、それ以上を望めば、どうしても人格や育ちの問題に入りこんでしまいます。すると行きつく先は、生活を正せ、真面目に生きよといった道徳の領域しかありません。それは「お前は育ちが悪いから(根性が悪いから、性格が悪いから)、こういうことをするのだ」と言っているのと同じです。とてもではありませんが、子どもは素直になれないでしょう。
「罪を憎んで人を憎まず」というのは、罪と人を分離することを言うのです。
ただし、罪を「認めさせる」ということも、それはそれで大変なことで、ここでもうっかりすると人格問題に入りかねない部分です。
罪を認めさせることのできるのは事実だけです。
何か悪いことをした人間にも必ず言い訳はあります。それは余りにも身勝手な主張だったり一方的な見方だったり、あるいは妄想的な被害者意識だったりしますが、それはそれで主観的には正当な理由です。問題はそうした主観を越えて、事実がどれほど罪深いかを知らしめることができるか、ということです。
そのために、私たちは事実をその子の主観から引き離します。つまり他人がやったことのように客観的な見方に近づけて行くのです。
実際に何が起こったか、誰が何を言いどんなことをしたのか。そのときの気持ちを聞くのは後のことです。とにかく事実をありありと映像のように浮かぶまで語らせるのです。そしてまるで昨夜見たテレビドラマを語るように話ができると、罪深さは自ずと見えてきます。そこから謝罪まではさほど難しくはありません。
私がこれまでやってきたことはそういうことです。