カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「出口なし、八方塞がりのいじめ事件。結局、道はひとつしかなかった」~困った子、困っている子の話③

 文科省の定義に対照すれば明らかないじめ事件。
 しかし解決の道がない。
 どうなればいいのか、本人にも分からない。
 結局、その子が別の道を探すしかなかったのだ。
という話。
(写真:フォトAC)

【定義に照らし合わせるとやはり“いじめ”】

 異動で移った時にはすでにこじれ切っていた「いじめ=不登校」事件ですから、もはや私には手の打ちようがなかったと言えば言い訳も立つのかもしれません。けれどもっと早い段階からかかわっていれば解決の糸口は見えたのかというと、それも微妙です。

 当時の文科省のいじめの定義は次のようなものでした。
『本調査(*1)において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。』
*1・・・「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」

 この定義に合わせると、彼女をハブった(死語だな)のは、ちょっとツッパった感じのかつての仲間ですから「一定の人間関係のある者」には違いありません。無視や仲間外しが「攻撃」ならそのグループから心理的、物理的な攻撃を受けた」ことにもなります。もちろん学校に来られないほどの「精神的苦痛を感じている」のは間違いありませんから、これは明らかないじめ事件ということになります。
 学校も県教委担当者も地元議員も、「いじめられた児童生徒の立場に立って」いじめかどうか判断しようとしていますから、本人が「睨まれた」と言えば睨まれただろうと考えざるを得ませんし、「無視された」と言えば無視されたのだろうなと受け入れざるを得ません。

【しかし“加害者”にも言い分はある】

 ところが加害者たち(もとは8人組、被害者をハブって今は7人組)に言わせると、
「いろいろうるさいから見ないようにしていると『無視した』と言われる。無視したと言われないように目を逸らさないと『睨んだ』と言われる。何をやってもいじめと言われる。じゃあ、いったいどうすりゃいのよ」
ということになります。特に私が赴任してきた4月にはすでに学校の全職員が7人組の動向を見張っているようなありさまで、とうてい攻撃的な行動に出られるような状況ではなかったのです。しかし被害者が「(隠れている特別支援学級の教室の)壁をドンと叩いた」「外でわざとらしく咳払いをした」などと訴えられると、一応、聞かざるを得ません。なにしろ判断は「いじめられた児童生徒の立場に立って行う」ですから。

 もちろんリーダー格の子の、
「私はただあの子が嫌いになっただけ。そうしたら他の子もみんなあの子が嫌いになった」
には無理があり、例えば自分が「あの子、ウザくて面倒くさいね。もう話すのやめるワ」と言えば次に何が起こるかは十分に分かっていたはずですから、これが意図的な仲間外しであることには違いありません。しかしそれではどういう解決の方法があるのかと言えば、それも難しいのです。

【出口なし、八方塞がり】

 これが保育園児や小学校1~2年生くらいだと楽です。保育士や教師は子どもたちを集めてこう言えばいいのです。
「仲間外しはいけないことでしょ? さあ、仲直りをして、また一緒に遊びなさい」
 そしてその場で「ごめんね=いいよ」をやると、だいたいその場は収まります。
 大人だったら金で解決できます。心の傷には慰謝料という対応策があります。
 しかし小学校6年生はそういう訳にはいきません。7人組に謝らせて、元のナンバー2の位置に戻し、昔のように肩で風を切ってブイブイやる、そのお手伝いを学校や県教委や市会議員がやるというのもピンときませんし、6年生はそんな指導を受け入れません。
「一度つき合い始めたら、イヤになってもずっと仲よくし続けなくちゃいけないの!?」
というリーダーの言い分には、ある程度の説得力があります。

 7人組のうちのひとりはこんなふうにも言います。
「私だって昔ハブられたことがあった。でも親にも先生にも言わなかった。言わずに我慢して、そのうち仲直りして、今は昔と同じようにやれるようになってきた。それをあの子ったらすぐに大人に言いつけて、いじめだ、いじめだって・・・いじめでも何でもないのにいじめだって言われるなら、ホントにいじめてやりたくなる」
 それも分からないではありません。

 そもそも当時の文科省の定義自体が厄介で、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、「表面的・形式的に行うことなく」と言っているにも関わらず、「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」と最初から形式が決まっていますし、“いじめかどうかの判断はいじめられた児童生徒の立場に立って行う”という言い方自体が論理矛盾です。言葉を変えて、「殴られたかどうかの判断は、殴られた子どもの立場に立って行う」と言えばその奇妙さは自ずと際立ってこようというものです。「殴られた子ども」と言っている以上、殴られたかどうかの判断なんて必要ないのです。

【結局、道はひとつしかなかった】

 元の8人組のナンバー2に返り咲くという原状回復もありえず、金で解決することもできず、かといってクラスで別グループに繋がるとか、一人で生きるとか、あるいはかつてハブられた7人組のひとりのようにじっと時機到来を待つといったこともできず、さらに大人たちがお膳立てしてくれた「転校」とい方法での再スタートも蹴散らしてしまい――結局その子は1年間、さみだれ登校を続けたあとで学区外の別の中学校に進学しました。
 ほどなくそこでもいじめられて登校できなくなっているという噂を耳にしましたが、実際はどうか知りません。アフター・メンテナンスに不熱心なのは、教師のひとつの特徴です(送り出した子は数千人もいますから)。
 
 今こうして思い出しながら記録し直すと、あのクラスは女子だけでも18名、男女合わせると37名もの子どもがいたのです。なにもあの8人組にこだわらず、クラスの中に別の居場所を探せばよかったのです。そのための40人学級でしょ? おそらくそれが唯一の解決策で、そのための人間関係スキルも磨いておくべきでした。
 しかしクラスの中の大きなグループのナンバー2に君臨していた彼女には、今さら地位が低い他の子どもたちと一緒になることなど、とてもではないができない相談でした。どう考えてもその道はない。返り咲きもない、転校して上手くやれる自信もない、大人たちもロクな提案をしてくれない、そこで年じゅう焦れている――。
 
 無視される、睨まれた、笑われた、遠くでひそひそ話で私の悪口を言っている、授業中に隣の席でわざとものを落として音を立てる――そうした申し立てがあるたびに、学校も県教委も議員も熱心に聞いて対応しようとしてきました。しかしそれはお昼寝をしなかった私の孫2号のイーツと同じで、ひとつひとつの訴えに対応する必要はなく、本質的な部分に対策を打つべきだったのです。
 イーツの場合は昼寝をさせる工夫です。元ナンバー2のあの子には改めて人間関係の学びをさせること、それが本来やるべきことでした。
(この稿、終了)

《参考》
 いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度からいじめは以下のとおり定義されています。
「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。