カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「いじめ調査バブル:子どもも教師も訴えたもの勝ち!」~不登校もいじめも過去最多について②

文科省はできるだけ多くのいじめ報告を要求する。
報告の多い学校は立派で、少ない学校は怪しいとさえ言うのだ。
だから学校は限りなくいじめもどきを掘り出し、対処する。
子どもはケンカさえできなくなり、いじめ自体は地下運動化して、残る。
という話。(写真:フォトAC)

 いじめの認知件数が増え続ける背景には、「いじめ」と定義される範囲が、取るに足らない軽微なものから警察が対応すべき暴力まで、広すぎるという事情がある――そんなふうにお話ししました。しかし原因はそれだけではありません。

【いじめは訴えたもの勝ち】 

 昨日見たようにいじめの定義が主観主義の立場を取って「児童生徒が心身の苦痛を感じているかどうか」が基準になると、当然、それは訴えたもの勝ちになります。
 いじめ問題ではよく「いじめる側といじめられる側が一夜にして逆転してしまうことがある」と言われますが、音を上げて早く「いじめられてる」と叫べばよかったものを、自力救済で「一夜にして逆転」させた旧被害者は、新被害者の出方次第では「いじめ加害の張本人」になりかねないのです。教育の現場ではよくあることで、私などは困惑することが少なくありませんでした。しかし新被害者はこう訴えます。
 「私だってやったかもしれないけど、こんなにひどくはなかった!」
 人間は、しばしば自分がやったことよりもやられたことの方に重きを置くものです。
 
 もっとも子どもの「訴えたもの勝ち」は、いじめの認知件数が増える上でさほど大きな要因ではないともいえます。すぐに大人の助けを求めるのは子ども社会でも仁義違反ですから、数は必ずしも増えるとは限りません。昔と違って被害者の声は大きく、保護者も人によっては間髪を入れずに介入してきますから、たいへんではありますが同じ子が何度も訴えることはあっても訴える子ども自体がどんどん増えてくるというものでもないのです。
 むしろ問題なのは教師で、教師もまた「訴えたもの勝ち」なので訴えが増え続けるのです。そこには特殊な事情があります。

【教師もまた訴えたもの勝ち。いじめもどきも報告する】

 それは10月27日に公表された「令和3年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」、10ページ上の小さな注意書きを読むと分かります。そこにはこう書いてあるのです。
 文部科学省としては、いじめの認知件数が多い学校について、「いじめを初期段階のものも含めて積極的に認知し、その解消に向けた取組のスタートラインに立っている」と極めて肯定的に評価する。【児童生徒課長通知】
 いじめを認知していない学校にあっては、・・・解消に向けた対策が何らとられることなく放置されたいじめが多数潜在する場合もあると懸念している。【児童生徒課長通知】
 
 つまりいじめ事態の報告件数の多い学校は立派だが、少ない学校(特にゼロと回答した学校)には不信の目を向けている、と文科省が宣言しているわけです。かくて各校はありとあらゆる事例を報告することになります。
「◯◯ちゃんの頭をたたいたら『バカ』と言われた(そして傷ついた)」
「△△ちゃんはもう一カ月もイヤな目つきでこちらを見ている」
「✕✕ちゃんがサッカーの試合中、『こっちに来るな』と言った」
 ひと昔前なら単なる子ども同士のトラブルだったものも、対処したうえでいじめ事件として報告する――。私が「いじめもどき」と呼ぶこうした事案は、どれほど多く報告しても「解決済み」と但し書きすれば問題ありません。むしろ誉めてもらえるからやらざるを得ないのです。

 「いじめ防止対策推進法」の制定された平成25年以降、いじめ事件数がうなぎのぼりで、「コロナ禍で登校していない」「家の近くで友だちと遊ぶこともない」といった特別な状況でもない限り減る様子がないのは、教師もまた訴えたもの勝ちで報告しまくるためだと、私は思っています。それしか道がありませんから。

文科省にも理由がある】

 もっとも文科省にも追いつめられた事情があります。いじめの重大事案が起こったときは必ず学校のいじめ対策が問われますが、そんな大きな事件のあった学校で「過去三年間、いじめ事案の報告ゼロ」では話にならないのです。学校もいじめ対策に不熱心なら、文科省もしっかり指導してこなかったと、連日連夜マスコミや世間から責め立てられる経験は再三ではありません。
「学校・教委・文科省としては精一杯取り組んできたが、それでも発見・対処に至らなかった」
と、形だけでも整えておかなくては世間が許しません。大も小もできるだけ掘り起こして限りなく潰しておく、そうやって初めて学校を守ることができるのです。

【目に見えるトラブルはすべて潰す。容赦はしない】

 昭和の時代に比べると、児童生徒間のトラブルに対する教師の介入は非常に早くなりました。「いまの学校ではケンカもできない」と言われるのはそのためです。子ども同士が痛みを感じながら人間関係を学んでいく時代はとうに過ぎています。
 気に入らないとすぐに人を殴るジャイアン型のいじめっ子は消滅し、どうしても我慢できないいじめっ子は陰でコソコソと事を運ぶようになる。反政府運動を徹底弾圧すると地下組織ができるのと同じです。その意味で「現代のいじめは陰湿になった」というのも、教師たちが些細なトラブル見逃さず、目に見えるいじめを徹底的に摘み取った成果だという見方もできます。しかしだからといっていじめそのものはなくならない。
 私たちはどうしたらいいのでしょう?

(この稿、続く)