カイト・カフェ

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「私は太宰治が嫌いですと、本人の前で三島由紀夫は言った」~半世紀ぶりに「走れメロス」を読む③

 私は太宰治の作品が嫌いだ。弱さを前面に押し出して、
 陰で密かに人々を愚弄する――。
 三島由紀夫はそれを見ていた。人間の弱さを許さない三島は、
 「私は太宰が嫌いだ」と、直接本人に伝えに行く。
という話。(写真:フォトAC)

【「人間失格」の悪魔的な仕組み】

 予め言っておきますが(すでに予めでもないか)、実は、私は太宰の文学はきらいなのです。16歳か17歳ごろ「人間失格」を読んで不覚にもいたく感動してしまい、数年をつまらないことに費やしたとさえ思っています。

 あの小説、大人になってから読めばどうということはないのですが、主人公の優柔不断、あのだらしなさ、あの傷つきやすさ、そしてあのおどけぶり、どれをとっても「ここに書いてあるのは自分だ!」と言いたくなる内容ばかりで、半分泣きながら我がことのように読み終えて本を閉じると、そこには「人間失格」と書いてあるのです。まるで、
「あ、オレって失格なんだ」
と自己評価する仕組みになっているようなものです(私を含む特定のひとにとってなのかもしれませんが――)。
 しかも「失格だからダメじゃないか」とか、「なんとか乗り越えなくちゃ」とかいった話にはならず、「失格でもいいじゃないか(人間だもの)」みたいな雰囲気で、静かに生活の中で沈殿していくことになります。
 自分から失格だって認めているのだからそれでいいじゃないか、どんなに悪くたって叩かないで、どんなに惨めでも笑わないで・・・。

 しかし考えてみれば十代の男の子なんて、大半が優柔不断でだらしなく、傷つきやすい上にしょっちゅうおどけて自分と向き合うことから逃げています。しかしそれはいつか乗り越えられるべき仮の姿、若き日の自分であって、その時点でダメだから「人間失格」だと言われたら身も蓋もない話です。おそらく太宰という人は、それを承知で罠を仕掛けているのです。
 ボクは人間として失格、ボクとキミは似ている、だからキミも人間失格、みんな失格、全員失格、だからボクはみんなと同じ、だからボクは失格じゃない――と、そんなふうになっているのです。一種の抱きつき心中、拡大自殺のようなものです。
 私はまんまとハメられたのかもしれません。

【私は太宰を嫌いだと本人に言い放った人】

 今日、最初に私は「太宰の文学はきらいなのです」と書きましたが、同じことを太宰治本人に直接、言い放った人がいます。三島由紀夫です。
 まだ東大の学生だったころ、日ごろから「太宰の文学はきたらいだ」と三島が言っているのを知っていた学生仲間が、新潮社の野原和夫を介して、太宰との酒席を設けたのです。昭和21年の12月14日、太宰治37歳、三島由紀夫21歳の時です。
 
 この邂逅には文書として残る二つの証言があり、ひとつは野原和夫の「回想 太宰治」、もうひとつは三島由紀夫自身が残した「私の遍歴時代」で、そこに同じ場面が描かれているのです。
 野原によると、太宰が酔っ払って学生たちとワーワー盛り上がっていたところに、酒も飲まず神妙な顔で座っていた三島由紀夫が何かの拍子に森鴎外の文学について質問し、それを太宰がいい加減に扱ったところで、あの有名なセリフが出てきたようなのです。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 
 それに対して、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた」
というのが野原の記憶。三島は、
「その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、『そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。』」
 そう記録した上で、
「私と太宰氏のちがいは、ひいては二人の文学のちがいは、私は金輪際『こうして来てるんだから、好きなんだ』などとは言わないだろうことである。」
と書いているのです。よほど嫌いだったのでしょうね。

「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」
「やっぱり好きなんだよな。」
 どちらも太宰の言いそうな言葉ですが、私は三島由紀夫の説に心ひかれます。

【弱さは守られるべきものなのか、乗り越えられるべきなのか】

 三島由紀夫という人は肉体的には生来虚弱で、祖母に溺愛されケガをしないように女の子のように育てられた人です。そのため軍隊に行くこともなく終戦を迎えています。彼はそうした己の肉体を恥じており、三十歳を過ぎてから筋トレに励んであのみごとな肉体を創り上げ、しばしば誇示するようになります。三島にとって弱さは超克すべきものであって、決して人に曝したり、見せつけるようにしていいものではありません。
 そうした克服型の人間からすれば、「弱い自分をそのまま認めて!」「自ら弱さを吐露しているのだからむやみに叩かないで!」と言っているかのような太宰の作風が許せなかったのでしょう。
 しかも弱いだけならいいのにその陰に隠れて、傲岸で不遜、過剰な自信と異常な羞恥心が交錯して、何とも度し難い、面倒くさい人間がつくられています。「走れメロス」も、最後の最後に異常な自尊心が勝っただけの、傲慢で情けない男の物語だと考えれば、優れた小説だということになります。昔の私は、ただ読み方を間違ったに過ぎないのかもしれません。
 
 私はメロスのようなわがままで身勝手で、プライドは高いのに何もせず、弱く、直情的で自己中心的な大人を好みません。しかしメロスのような小学生だったら、あるいはメロスのような中学生だったら、飛び跳ねて抱き着き、何とか教育しようと必死になるはずだと思います。