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「『レ・ミゼラブル』は意味もなく長かった」~私が読んだ長編小説の話

 若い頃、正月はドストエフスキーの「罪と罰」か「カラマーゾフの兄弟」を読むと決めて交互に5年ほど続けたことがあります。たぶんそれで「罪と罰」は3回、「カラマーゾフの兄弟」は2回読んだと思います。ただし「カラマーゾフ〜」の方は最初の200ページほどがとりつきにくく波に乗るのがたいへんでした。「罪と罰」はいきなり殺人事件から始まるので一気に進みます。ジュニア版には出てこないスヴィドリガイロフだとか、ちょい役のマルメーラードフ一家(ソーニャの家族)といった魅力的な人物が次々と出てきて、まったく飽きさせません。かなり長い小説ですが、それほど苦労はありませんでした。

 ドストエフスキーは好きで、その後も「白痴」「悪霊」「未成年」といった長編はほとんど読みました。

 そのころはエネルギーも充実していたので、三島由紀夫の「豊穣の海」や「源氏物語」(ただし谷崎潤一郎訳)も全巻読みましたし、推理小説となると横溝正史などはほんとうにゴミみたいな短編集に至るまで読みつくしたと思います。しかし何といっても自慢は、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(全6冊)を読みきったということです。

 なぜそんなに自慢かというと、これがまったく面白くないからです。面白くないにもかかわらず、全巻最後まで読んだというのが自慢なのです。

 つい今しがた、「罪と罰」はジュニア版には出て来ないキャラクターがあってそれが魅力的だといった話をしましたが、「レ・ミゼラブル」の方はちょっと厚めのジュニア版となんら変わりありません。ストーリーにほとんど変化がないのです。それなのになぜ全6冊なのかというと、どうでもいいことが延々と書かれているからなのです。

 例えば小説の最初の方で一人の少年が僧院に入り、そこからカトリックの祭司へと出世の階段を一歩一歩登っていく話が数十ページに渡って描かれていますが、この人は誰かというと、ジャンバル・ジャンに銀の蜀台を盗まれ、翌日「それは私が彼にあげたのです」と嘘の証言をしたあの人です。そしてそれきり、二度と出てきません。あれだけ書き込んだのだから、どこかでまた会うかもしれないと思って読み進んでも、ついに出てこないのです。

 一事が万事その調子で、人物紹介は精緻を極め、七月革命などの場面になると延々と暴動の分析が始まり、政治的意味などが語られます。それら本筋ではない部分を除くと、ほぼ「ちょっと厚めのジュニア版」の分量になるのです。

 よく我慢して読みました。
 そうした書き方は当時の流行だったらしく、トルストイの「戦争と平和」も延々と戦闘分析やら人物分析が続き、こちらの方は何度か挑戦しながらついに読みきることはできませんでした。

レ・ミゼラブル」はおそらく研究者以外に原典に当たる必要はない本です。もちろん怖いもの見たさに読んでみるのも悪くはないかもしれませんが、そうでなければ「ああ、悲惨」ということになりかねません。