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「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」~TVドラマ「下剋上球児」に見る人間像・教師像③

 本気で悪くなりたいと思っている子は一人もいない、
 みんな実は「いい子」になりたい、それは事実だ。
 しかし子どもはしょせん子ども。自分では悪くなるのを止められない。
 そんなときは憤怒の菩薩も必要になる。
という話。(写真:フォトAC)

【誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい】

 子どもを信じることは大切ですがむやみに信じるわけにはいきません。自分の子どもが万引きか何かで捕まった時、「盗みをするような子じゃないと信じていたのに・・・」とホゾを噛んでも間に合いませんし、うっかりするとその近くで「オレはいつかやらかすと思って見ていたんだけどね」と冷ややかな視線を向けている人もいるかもしれないのです。

 逆の信じ方だって同じで、
「絶対に東大に入ってくれるって信じていたのに・・・」
とか、
「お前が甲子園に行くことばかり考えて信じていたのに・・・」
とか言われたら、子どもの方が迷惑です。
 子どもは場合によっては悪いこともしますし、たいていの場合、親の期待通りにはなりません。

 それにも関わらず「子どもを信じることは大切だ」というのは、信じ方が限定されているからなのです。信じていいのは、
『すべての子ども(あるいはすべての人間)が、悪くなることをよしとはせず、できるだけ多くの人から、「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」と思っている』というただ一点の事実です。 小さな子どもに限って言えば、「できるだけ多くの人から」の部分を、「大好きなお父さんお母さんから」に代えることもできますが――。

【「学校文化」にハマらない子】

 学校と言うところは、たくさんの人たちからさまざまに誉めてもらえるところです。学業成績が良ければ黙っていても誉められている感じがしますし、部活で活躍できればそれだって「凄い」と言われているも同じです。アイツはものを良く知っているねとか、コイツ、メチャクチャ面白いねとか、コミュニケーショ能力の高い子が活躍できる場も二重三重にあります。
 《キミは優しいね》とか《素直だね》は生徒同士では出てこないかも知れませんが、先生たちはそうした評価をしたがって、いつだって手ぐすねを引いて待ってたりします。

 しかし何をやっても誉められたりすごいと言われたりするわけではありません。
 かつての教え子で勉強はできるのにとんでもない「運動オンチ」(昭和の表現で基礎的運動能力にトンデモかなく欠けていること)で何をやってもダメな子が、こんな言い方をしたことがあります。
「テストの成績なんて目に見えないじゃないか。学校ってところは勉強ができたって駄目なんだ。運動ができなければ誰も認めてくれない!」
 それは少し言い過ぎですが、確かにそう言った面もないわけではありません。評価されやすい面とされにくい面、そして学校内ではまったく評価の対象にならない面――。そう考えると学校という場所は、案外評価の幅の狭いところだということが分かってきます。そんな「学校で評価されやすい、常識的で一般的な価値」を総称して「学校文化」と名づけるなら、その範囲でまったくサエない子はいくらでもいるのです。

 想像してみてください。
 国語・数学・理科・社会・英語、そういったところはテストをすればいつも30点~40点。体育の時間は何をやらせてもパッとせず、音楽や美術の時間はできるだけ目立たないようにしている。技術家庭科で作った木製の椅子が、鳥がとまっても崩れそう、部活はとうの昔に辞めてしまった――そんな子が人間関係でも特に能力を発揮できないとしたら、どこで「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」を実現すればいいのか――。

【ハマらない子の行き場】

 学校文化で能力がまったく発揮できないと、昔の子どもは本当に居場所がありませんでした。家に帰ってからも評価基準は学校文化そのものである場合が少なくなかったからです。
 いまの子は学校以外にもゲームだとかSNSだとか、オタク文化だとか、学校以外に自分の生き生きとできる場を持つ子は少なくありません。しかし昔の子は“友だちの誰も持っていない高価なアクセサリーを持っている”とか、“センコー(懐かしいですね、先生のことです)に反抗できる”とか、“堂々と校則違反をしている”とか、そういった差別化で一部の子たちから「誉められたい、感謝されたい、すごいと言われたい」を満足させてもらうしかなかありませんでした。
 その意味で、今週の「下剋上球児」に出てきた女の子は、古典的なプチ不良と言うこともできます。

 パパ活をしてまで彼女が友だちに誇りたかったのは何だったのでしょう? パパから買ってもらえるアクセサリーの品々だったのでしょうか、高級レストランでの食事といった経験でしょうか、それとも大人の男性と対等に渡り合っているという強さや逞しさでしょうか? ただ、いずれにしろ今のままでは済まないことは本人も承知しています。同じことを延々と繰り返していても、いずれ飽きられるだけです。エスカレートさせるか、引き返すか――。
 もちろん引き返すがいいに決まっていますが、これができない。今さら弱い自分、ダメな自分に戻ることなんかできはしない。できるとしたら、誰が聞いても納得できるような理由がなくてはいけない。

【悪いことを止めてくれる人】

 学校で少しチンピラがかった生徒たちに一番人気がある先生は、その学校で一番怖いと思われた先生たちです。少なくとも昔はそうでした。なぜならそうした教師は生徒から逃げずに体を張って付き合ってくれるからです。無視は絶対にしない。それと同時に、“怖い教師”は、しばしば子どもたちに”言い訳“を用意してくれるので、それも信頼の基礎になります。
 何かの態度を改めるとき、子どもはこう言えばいいのです。
「いや、アイツににらまれちゃってよ」
「あいつがうるさくてさァ」
 その一言で仲間同士了解が取れます。
「(そうか、アイツじゃしょうがないよな)」
 
下剋上球児」の女の子も陰でこう言っていたに違いありません。
「だってしつこいんだよ! レストランに行ってもカラオケに行っても入ってくるんだよ。そんして『お父さんですか? お父さんじゃないですよね』って、これじゃあみんな嫌になって逃げちゃうに決まってるでしょ。もうしょうがないから他のことを考えるワ」
 かくて無事、足抜けです。

 南雲は言います。
「誰もが親に恵まれているわけではありませんから、周りの大人みんなで面倒を見て行けばいいんじゃないかなと思ってはいるんです」
「危ない目に遭うんじゃないかって、放っておけなかったんです」
 しかしこうした感じ方、特別のものではないですよね?