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「学校に子どもを出していただく、子どもに来ていただくという伝統」~自由と不自由と安全・安心の物語③

 富国強兵を急ぐ明治政府にとって、国民教育の充実は最優先事項だった。
 「学校に子どもを出していただく、子どもに来ていただくという伝統」は、
 そこから始まる。
 学校はすべてを用意し、すべてを保証する、そうした伝統も最初からあった。
という話。(写真:フォトAC)

【学校に子どもを出していただく、子どもに来ていただくという伝統】

 明治維新、一刻も早く富国強兵を達成して欧米と肩を並べたい政府は、近代教育を底辺にまで行きわたらせることこそ早道だと考え、条件整備を急ぎました。
 先週も見たように、学制発布の前文で示された、
「自今(いまより)以後一般の人民、華士族農工商及女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」
(みなさんにお願いしたいのは、これから一般の国民は、華族、武士、農民、職人、商人、あるいは男女の区別さえもいっさいへだたりなく、町でも村でも家庭でも、学校で学ばないものなど、ひとりもいないようにする、ということです)
という低姿勢には、政府の切なる願いがこもっているように見えます。

 ところが初等教育をあまねく広げるということは、小さいとはいえ各家庭から日常の労働力を奪うことですから驚くほどうまく行きません。アメリカ合衆国では開拓時代にもっとも多く殺された職業は教師だったと言われていますし、帝政ロシアでも「ナロードニキ」と呼ばれる社会運動家たちが農村に入って次々と殺されたり回復不能な傷を負ったり、あるいは魔女として火刑にかけられたりしています。

 日本はそこまでではありませんでしたが、今でいう県知事が一軒一軒《不学の戸》を回って学校に出すよう説得したと言いますから大変なことでした。特に女子教育は遅れがちでしたので、家から《この子には裁縫の仕事があるので》と言われれば《裁縫も学校で教えます》と答え、《この子は家の子守役です》と言われれば、《赤ん坊ごと寄こしてくれてかまいませんから学校に出して》と譲歩し、ありとあらゆる好条件を示して《学校に来ていただく》ことを最優先としたのです。
 
 現在でも日本の義務教育は教育の博覧会みたいなもので、国語や算数・数学ばかりでなく図工・美術、あるいは音楽・体育・技術家庭科と、ありとあらゆるものが必修化されています。
 日本には欧米におけるキリスト教のような精神的統一性がないからと怖れた明治政府は、教育勅語を示して「修身」を行わざるを得ないと考えましたが、その伝統は今の「特別の教科道徳」に引き継がれています。
 つまり我が国の教育は、
「とにかく子どもを学校に出してください、来てください。そうすれば全面的に指導育成し、曲りなりにも社会に出ても困らない、『健康的で文化的な最低限度の生活』を送れる人材に育てます」
との約束を土台に、今日まで来ているのです。

【日本の学校は保護者を甘やかす】

 私は一部の保護者が学校を託児所代わりに考えたり、消費者気分で次々とサービスの追加・向上を要求したりする態度を苦々しく思っていますが、一面でそれも無理なからぬことと受け止める気持ちも持っています。なぜなら150年に渡って、政府は保護者をそんなふうに甘やかしてきてしまったのですから。

 日本の保護者のほとんどは、子どもを学校に送り迎えする制約から自由ですし、義務教育の学校である限り、大抵は昼食に何を持たせるかといった悩みからも解放されています。小中学校の9年間、ただ学校に行かせているだけで知・徳・体の三領域における最低限の力はつけてもらえそうです。
 子どもが学校で悪さをしたとか十分勉強しないとかを理由に校長室に呼び出され、
「この子に合う学校は他にあるようです」
と言われて学校探しをしなくてはならないような、外国映画では見慣れた場面に出くわす心配もありません。
 図工だの音楽だのが選択科目であるような国では、日本の学校並みのレベルの高い教育をさせようと考えたらそれも別に考えなくてはなりませんが、日本国内にいる限りは問題がありません。
 日本の学校制度は、100%とは言いませんが、保護者を教育という面から徹底的に自由にするものだと言えます。

 現在の岸田内閣は「異次元の少子化対策」とかいって子どもを持つことのコストをさらに下げようと苦労していますが、日本の教育制度についてもっと宣伝しておくことも大事です。少なくとも義務教育の間、子どもは案外お金がかからず、面倒も少ないのです。学校に上がってからも、子どものことは政府と学校が何とかしますから大丈夫ですと言ってやればいいのです。

【子どもたちにとっては】

 ネット民の口を借りれば、日本の子どもたちは学校で、世界で最も厳しい管理の下に置かれ校則に縛られています。食を強制され、部活動を強制され、個性は圧殺されようとしている、ということになりますが、もちろんそれは偏向した見方です
(この稿、続く)