カイト・カフェ

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「小学校で学ぶこと」~”健康で文化的な最低限度の生活”を保障する

 サイトの方でも扱いましたが、小学校の教育課程にコンピュータのプログラミングを導入する件、いよいよ本格的な検討が始まったようです。

 これまでも生活科や総合的な学習の時間、小学校英語や中学校のおけるキャリア教育などは、世間はもちろん現場ですらまったく論議されることなく上から降ってきました。現場が話し合ったのはそれを教育するかであって、その教育はほんとうに必要なものなのか、学校教育で身につくか、年齢的にふさわしい内容なのかといった本質的な部分についてはまったく蚊帳の外だったのです。別の言い方をすると、難しいことは考えなくていい、とにかくお前たちは言われたことをきちんとやればいい、そういった感じだったのです。そしてそれがうまく行かないと、“趣旨は良かったが現場が誤解した””内容は優れているのに教師の力が及ばなかった“とすべて現場のせいにして終わりです。

 「ゆとり教育」はその典型で、あれほど非難され揶揄されたにも関わらずだれも責任を取らない、頭を下げなかった。だた「先生たちが十分理解できなかった」と言って“見直し”を進めてしまったのです。その見直しの際も一言の相談もなく、「ゆとり教育」の申し子「総合的な学習の時間」を残したままで国語や算数の学習内容を戻そうとしたために学校の教育課程はとんでもなく窮屈なものになってしまいました。週2.86時間の社会科だの1.43時間の音楽の時間だのと、素人どころか当の学校の先生ですらよくわからない時間割はそうしてできあがったものです。

 今回コンピュータプログラミング必修化についても、それが日本人にとって必要なものなのか、学校で学べば身につくものか、小学生にふさわしいものなのか、そうしたことは一切論議されません。
 もちろんそう言えば、必要性について、
 人工知能(AI)などを活用して生産性を高める「第4次産業革命」に向け、情報活用能力を持つ人材を育成するために必要。
とすぐに答えが返ってきそうです。しかしそれは国家・社会にとっての必要性であって児童生徒の個人的な必要性ではありません。私が問うているのは「小学校の算数や国語ができないと大人になって日常生活で困難をきたす」、そういう意味での必要性です。

 簡単な調理や裁縫くらいできないと将来困る――だから小学校に家庭科があります。酸性とアルカリ性の違いくらい分からないと怖くてお風呂掃除やトイレ掃除もできない――だから理科の授業を行います。酸性やアルカリ性が何かを覚えている必要はありません。しかし世の中にはそういう単語で表現され、注意深く対処しなければならないものがあると、その程度のことは覚えていなければいけません、そうしないと生きていくのが少し面倒くさくなります。社会科で市役所や公民館が何をやっているか勉強しておかないと、簡単な手続きひとつにも困ります。
 小学校で学ぶべきはそういうことです。小学生は生きていく上で必要な最低限のことをしっかりと学んで身につけなくてはなりません。

 だから私は小学校英語やプログラミング教育を憎むのです。
 小学校の教育課程も小学生の頭の中も、もはやいっぱいいっぱいですから何かを入れれば別の何かが出て行ってしまいます。出て行かないにしても十分に入っていきません。
 今、目の前にいる小学生の大部分(おそらく99%以上)は生涯プログラミングに関係なく、英語ができなくても日常まったく困らない現在の私たちと同じ生活を送るはずです。それにも関わらずエリートを支えるために英語やプログラミングを学ばなければならないとしたら、子どもたちはあまりにも気の毒です。英語やプログラミングは学校で強制していいものではないのです。

 もちろんこれまでの小学校英語がそうであったように、小学生向けのプログラミング教育も楽しいものになることは間違いありません。
 私自身三十数年前のパーソナルコンピュータの黎明期には「今まさに分岐点であって今やらなければ“コンピュータの分かる人”の枠に入れない」とか脅されて高価なPCを買い(フルセットで50万円以上しましたからほんとうに高かった)、BASICというプログラミング言語を一生懸命勉強しました(当時はソフトというものがほとんどありませんでしたので、PCを買うこととプログラミングをすることは同義だったのです)。そしてそれは私の人生の中でも最も楽しく面白い日々でした。今の子どもたちがゲーム機にハマるように、プログラミングにハマったのです。
 プログラミングというのは“コンピュータの動作を司る手順書(プロトコル)をルールにしたがって書く”一種のパズルですから面白くないわけがないのです。それ自体が面白いのですからプログラミング教育も面白くないはずがありません。そしてだからこそ気に入らない。

 現在の小学校英語は「英語に慣れ親しむ」のが目的です。英語力などつかなくてもいいのです。親しんでさえいればいいいのだから英語の時間は実に楽しい。そして毎時間楽しく過ごす中で、エリートたちは英語に対する親和性を高め、実力をつけ国家に役立つ人材へと成長していきます。しかし普通の子たちはそうではありません。
 外国語習得なんてもともとピアノの習得と同じくらい根気と努力の必要なものなのです。本格的に英語教育が始まったら普通の子はあっという間においていかれます。そのうえ大人になるとほとんど使いませんから、全部忘れてしまう。結局、小学校時代の週1時間の英語学習なんて遊んで終わっただけのようなものです。
(それでも楽しかったからそれで良かった? それとも国語や算数でもやっていた方が大人になってから役に立ったのかな?)

 プログラミングも同じです。私はたいへんな時間を費やして十分使用に耐えられるほどの成績処理プログラムもつくれるまでになりましたが、優秀なソフトが出てきたらひとたまりもありませんでした。エクセルやワードを使いこなすのには別の修業が必要でした。、プログラミングの知識なんて何の役にも立たないのです。
 だからどうせやるなら小学生のころからエクセルやワードをやらせればいい――そう言っても本気で賛成する人は少ないでしょう。それがプログラミングだと誰も反対しないのですから不思議です。