「日本の学校をホグワーツ魔法学校のようにしたい」~四の五の言わずに聞け!③

 学校は勉強をするところである。それは間違いない。
 そして苦しい勉学を続けるためには、それなりの仕掛けやルールが必要だ。
 しかし現代の学校では、子どもはより自由に、より手厚く保護される。
 高い教育の実現は、ひとり教師の肩にかかっている。

という話。

(写真:フォトAC)

教育基本法を、もう一度、見直してみよう】 

 基本的な確認ですが、私は学校を”勉強するところ“だと確信しています。なぜ確信できるのかというと、教育基本法の第5条第二項に書いてあるからです。
「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」
学校は一義的には遊び場でも社交の場でもありません。個人の能力を高めるとともに国家及び社会の形成者の基礎を養う場です。
 また、第6条第二項には、
「前項の学校(注:法律の定める法人の設置する学校)においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。」
ともあります。文中の「教育の目標」というのは、第2条に5項目に分けて書かれているこまごまとした事柄のことです(*)。

 ほんとうにこまごまとして多岐にわたっているため、だから学校は忙しくなるのだと、ため息が出るほどです。
 条文はどれも抽象的ですから運用次第でどうとでもなりそうですが、そこは文科省、抜かりがありません。「学習指導要領」でかなり具体的に記述するとともに、書ききれなかった部分については報告を求める仕組み(総合的な学習の時間の報告書など)になっています。

 日本の義務教育が国語・算数数学・理科・社会・外国語以外に、諸外国ではあまり例のない図工・美術や音楽・体育、技術家庭科まで含めていて、道徳教育や健康教育、人権教育から環境教育、性教育、キャリア教育等々、次から次へと学習内容を増やしているのはそのためです。
*(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一. 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二. 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三. 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四. 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五. 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


 実際には高校に進学する者がほとんどだとしても、義務教育として学校に行くのは9年間だけです。そこで学校教育を終えてしまう子どももいるからには、この9年の間に、右も左も分からない子どもを、曲がりなりにも「社会において自立的に生きる基礎力をもち、国家及び社会の形成者としての基本的資質を有した人間」に育て上げなければならないのですからたいへんです。急がなくてはなりません。


【日本の学校教育はきつい】

 中国から学問が伝わって以来、日本の学生は一貫して苦しみながら学習してきました。物事を学ぶことを中国では「学習」というのに、日本では強制を意味する中国語の「勉強(強いて勉める)」で表現するのはそのためです。
 古代においては中国に、明治に入ってから欧米に、追いつくためにはそれくらいの学習をしなければならなかったのです。そして現在は、世界のトップグループに居続けるため、さらに欧米ではキリスト教や家庭が担っている道徳や躾を学ぶために、「学習」は「勉強」であり続けるしかないのです。今さら、宗教や家庭に期待するわけにはいきません。

 かけ算九九ひとつをとっても暗記するのは大変だというのに、日本の子どもは世界標準より少ない時数(他にやることが膨大なので国語や算数の時数は少なくなる)で、欧米をはるかに越えるレベルの学習をしなくてはなりません。例えば算数にでは、小学校高学年でアメリカより1~2年上の内容をやっていると言われています。
 PISAやTIMSSで常に上位の成績を上げている背景には、こうした厳しい学習の状況があるのです。


【学校のアカデミズム】

 そんな苦しい勉強を続けるためには、それなりの環境が用意されなくてはならないと私は考えます。学校についていえば、落ち着いた雰囲気の校舎、明るく過ごしやすい教室。壁には学級目標や学習の経過が貼られ、清掃が行き届いていて紙屑一つ落ちていない。
 理科室には実験器具が揃っていて、音楽室には古今東西の音楽家肖像画がある。廊下にはそちこちに名画が掲示され、屋外に目をやると小さな庭園まである。
 子どもたちはきちんと席についてルールに従って発言し、教室移動の際も無意味に騒いで走ったりしない――ひとことで言えばホグワーツ魔法学校のような雰囲気、それを私は学校のアカデミズムと呼びます。

 私見を申せば、そんな場所に赤髪・ピアスの子がのこのこと来ては困るのです。ブラウスから透けて見える下着がパステルカラーではかないません。ツーブロックもサラリーマン風の穏やかなものであれば我慢できますが、頭頂部を高く逆立てられると眉をしかめます。
 本人は優秀で、そんな服装、そんな見かけでもガッツリ勉強できるかもしれませんが、周囲には誘惑に弱い子がいくらでもいるのです。「受験は団体戦」と言って本来は励まし合ってやるものですが、見かけも態度も向いている方向もバラバラでは戦いになりません。
 ですから、「ならぬものはならぬ」なのです。


【昭和か!?】

 こんなことを言うと昭和を通り越して「明治か!?」ということになりそうですが、話は逆です。
 昭和時代に総合的な学習もプログラミング学習も小学校英語もなかったのです。それどころか環境教育やキャリア教育も、その他の追加教育もほとんどありませんでした。時間はゆっくり流れていて、私の歴史の先生などは2月になってもなかなか黒船が来ず、結局昭和史はやらずに終わってしまいました。毎年そうだったみたいです。
 昭和はそれでもよかったのです。部活にも先生たちは喜んできてくれました。全国大会などありませんでしたから、練習もゆるかったのかもしれません。

 つまり学ぶこともやることも多すぎる今だからこそ、ホグワーツ魔法学校は理想とされなくてはならないのです。子どもたちが勉強しやすいように、あちこちを締めておく――。
 しかし現実は、子どもはより自由になり、保護され、学校教育の高い目標は教師一人の力で実現しなくてはなりません。
 それが私には腹立たしい。