カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「昔の高貴な女性には名前がない」~自分の名前を隠しなさい① 

 百人一首を見ていると、そこには侍みたいな、
 不思議な名前の女性たちがいることがわかる。
 「ナントカの母」だの「カントカの娘」だのといった女性もいる。
 そこには深いワケがあるのだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20220208201232j:plain(写真:フォトAC)

 ちょっと厄介な問題にかかわっていて「心ここにあらず」の状態。ものが考えられないので、10年近く以前に中学生の子どもたちに話した内容を転載します。題名は「名の秘匿」です。枕にバレンタインデーを持ってきました。

 

【来週はバレンタインデー】

 来週2月14日は、知ってますね。セント・バレンタインデーです。
 今から2000年ほど前、古代ローマ帝国では故郷に愛する者を残すことで兵士の士気(戦う意志)が鈍ってはいけないということで、皇帝が結婚を禁止してしまいました。しかしキリスト教の司祭のバレンティヌスはそれではいけないということで、秘密裏に多くの結婚を成立させたのです。やがてそのことは皇帝に知られ、バレンティヌスは捕えられて死刑になるのですが、その日が2月14日なのです。それ以来この日は「愛の日」、セント・バレンタインデーとなり、欧米の国々では愛する者同士がカードやちょっとしたプレゼントを交換する日となっています。

 日本では女性から好きな男性にチョコレートを渡して告白をする日、ということになっていますが、それは日本だけのようで、最近ではむしろ自分自身のためにチョコを買う人も多いようですね。また、バレンタインデーのお返しの日、ホワイトデーとなると、これはもうお菓子屋さんの陰謀で、世界中で日本しか行っていない習慣だそうです。あまりまんまと乗せられないように。

 もちろん家族の中でお互いに小さなものをプレゼントしあうのはいいかもしれませんが、無理してチョコレートを用意したり、この日を告白の日と決める必要もないでしょう。
 ちなみに私はチョコレートが嫌いではありません。もしかして先生はチョコが嫌いかもしれないと思って遠慮している人が居るかもしれませんが、大丈夫。どうぞ心配せず、持ってきてください。

 

百人一首の不思議な名前の女性たち】

 さて今日は「名の秘匿」―名前を隠す―というお話をします。

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 先月の百人一首大会のおり、私は三つの短歌が好きだというお話をしました。

 ひとつは喜撰法師の「わが庵は~」そして小式部内侍の「大江山~」、伊勢大輔の「いにしへの~」です。
大江山~」についてはこの前、説明しました。「いにしへの~」についても、昨年の百人一首大会のときに話しています。だから今日は「わが庵~」ということになりそうですがそうではありません。今日見てみたいのは、これらの和歌の作者の名前です。

 まず小式部内侍(こしきぶのないし)ですが、この人のお母さんは和泉式部と言って、百人一首に名前のある人です。以前お話ししたように、和歌の名人として当時とびぬけて有名だった人の一人です。その和泉式部の子どもですから「小式部」というのは分かりますが、残りの「内侍(ないし)」は何なのでしょう。訓読みすると「うちざむらい」。とても女性とは思えない名前です。

 そう思って他も見ると、伊勢大輔(いせのたいふ)、これも妙ですね。「いせのたいふ」と覚えてしまっているので今では何とも思いませんが、百人一首を知らない人に読ませると百人が百人とも「いせ だいすけ」と読むはずです。だって大リーガーの松坂大輔と同じゃないですか。今から1000年前の貴族の世界には「だいすけ」と名乗る女性がいたのです。

 そう思って百人一首をもう一度見直すと、女性にはろくな名前の人がいない。
 右近、赤染衛門大弐三位、儀同三司母、右大将道綱母・・・考えてみると、紫式部だって清少納言だって妙な名前です。式部も少納言も考えてみればもともとが官職――今でいえば「〇〇部長」とか「〇〇課長」とかいったのと同じなのです。なぜこんな変な名前なのでしょう。

 実は当時の貴族の女性たちは表向きの名前を持たなかった、別の言い方をすると本名は隠されていたのです。
 紫式部は「紫にかかわる物語(源氏物語には紫の上だとか藤壺といった紫色にかかわる登場人物がたくさん出てきます)を書いた人で、宮中の式部という位にある人の娘」という意味です。清少納言は「清原家で少納言の位にある人の娘」ということになります。
 もっとあからさまなのは、こちらの儀同三司母(ぎどうさんし‐の‐はは)、右大将道綱母(うだいしょう-みちつなの-はは)でしょう。実際には息子よりはるかに有名な人ですが、息子の名前を使って自分を表しているのです。

 

藤原光明子光明皇后)の話】

 では、貴族の女性はみな名前が分からないかというと、そうでもありません。とくに天皇のお后は家系図でつながっていますから、実際にどう呼ばれていたかは別にしても、名前だけは残っています。
 時代をさらに300年ほど昔に戻しますが、奈良の大仏をつくらせた聖武天皇のお后は光明皇后といいます。この人は家系図から藤原鎌足の孫にあたる女性で、結婚前の名前を「藤原光明子」という女性であることが分かっています。
 ただ、それを「ふじわらの こうみょうし」と発音するかどうかは、実は分かっていないのです。当時は録音する機械がありませんので、ある女性について漢字とひらがなの両方で書いた例がないと、何と読んだのかわからないのです。

 例えば「明るい子(明子)」と書けば「あきこ」さんだと普通は考えます。ところが平安時代のある明子さんにはひらがなで書いた名前が残っていて、それが「ひかりあかりこ」だったのです。こうした例があるため、歴史上のすべての女性の名は音読みにする、というのが約束事になっているのです。
 「藤原光明子」は、これこそ「ふじわら ひかりあかりこ」の方が合っているようにも思えるのですが、確かなことは言えないので「こうみょうし」と読むようにします。紫式部の仕えた中宮彰子もたぶん本名は「あきこ」、清少納言が仕えた中宮定子もきっと「さだこ」でしょうが、今はこれらも「しょうし」「ていし」と読むようにします。

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 光明子は、歴史上数少ない本名の知られている女性のひとりですが、この人も外に向けては本名を書くことはありませんでした。右は光明皇后が書いた文章ですが、最後の署名は「藤三娘(とうさんじょう)」、藤原家の三番目の娘というそっけない書き方で自分を表します。

 なぜそうなるのか。
 実は当時、人に本名を知られると自分がそっくり奪われるという感じ方があったからなのです。


(この稿、続く)