カイト・カフェ

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「1941年では遅すぎる」~太平洋戦争開戦記念日に考えた② 

 1941年12月8日の真珠湾攻撃で日本は大勝をおさめた。
 そして引き返せなくなった。
 その直前にも、引き返す転換点はなかった。
 だとしたらどこまで遡れば道は変えられたのだろう。
という話。

f:id:kite-cafe:20211208073521j:plain(写真:フォトAC)

真珠湾攻撃

 太平洋戦争開戦の記念日です。1941年12月8日(現地時間7日、日曜日)、この日までに日本の航空母艦6隻、戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、特殊潜航艇5隻、艦上航空機350機が密かにハワイ沖に移動し、現地時間6時30分、第一波の183機が、1時間後に第二波171機が、ハワイ・オアフ島真珠湾に向かって発進しました。

 真珠湾というのは、私も行ったことがあるのですが、普通の港湾をイメージすると全く違っています。それはいわば海と海岸近くの湖とを川で繋いだような形になっていて、川に当たる部分は狭いところで幅500mほどしかありません。大きな湖にはフォード島という名の島が浮かんでいたり陸地が半島のように突き出ていたりと、かなり複雑な地形になっています。要は袋小路のような湾で、不意の攻撃に対して艦船が散り散りになって逃げることができない構造になっているのです。しかも現地時間7日は日曜日でしたから、軍も民間人ものんびりとけだるい朝を迎えていました。状況としてはまったくの入れ食い状態だったのです。

 米軍の被害は戦艦4隻沈没・1隻座礁・3隻損傷、軽巡洋艦3隻損傷、駆逐艦3隻座礁、航空機の損失188機・損傷159機、戦死者2,334名、民間人の死者68名というありさまです。それに対する日本軍の損害は、特殊潜航艇4隻沈没・1隻座礁、航空機の損失29機・損傷74機、戦死64名、捕虜1名――まさに圧勝でした。

 ただ日本にとってはとんでもない失策が、ハワイから数千km離れた首都ワシントンで行われていました。宣戦布告状の受け渡しが真珠湾攻撃のあとになってしまったのです。現地の大使館員にはまったく緊張感がなく、前夜は壮行会で大酒を飲み、7日の日曜日は他のワシントン市民同様、一部の職員を除いて休暇を取っていたのです。専門のタイピストも休日なの暗号解読とタイピングは遅れに遅れ、大使が米国務省においてハル国務長官に宣戦布告状を手渡したのは、真珠湾攻撃から1時間も遅れてからのことでした。これが「日本人卑怯者説」となり、復讐心に燃えたアメリカ国民は「パールハーバーを忘れるな」と、猛烈に対日戦争を支持したのです。正義感に火のついたアメリカ人は手に負えません。

 

【12月8日ではすべてが遅かった】

 日本を卑怯者にしてアメリカ人の怒りに火をつけた当時の在米日本大使館の職員の多くは、戦後、外務省で出世しました。日本のシンドラーとしてのちに我が国の名を高める杉原千畝は、同じ時期に外務省で冷や飯を食っています。そう考えると言いたいことは山ほどありますが今はその時ではありません。
 私が言いたいのは、真珠湾攻撃アメリカ人の心に火をつけたのと同じように、日本人の心にも火をつけてしまったということです。彼の国では怒りの火、我が国では国威発揚の火です。これで完全に引き返すことはできなくなりました。

 思えば1946年12月8日ではすべてが手遅れだったのです。
 政治は合理だけで動くものではありません。さまざまな思惑や流れによって方向が決まって行くものです。それを一気に転換するのは不可能ですから、できるのは小さな積み重ねで一歩一歩、歴史を動かしていくことだけです。
 そこに昭和の戦争を満州事変から太平洋戦争終結まで、ひとつながりのものとして学ぶ意味があります。そのどこかに、引き返す、あるいは方向を変える可能性があったからです。


【歴史の流れの中では、私たちは平然と戦争に行ってしまう】

 12月8日について子どもたちに伝えたいことはもうひとつあります。すべてが手遅れのこの時期に、現代の私たちが生きていたとしても、軍の召集に応じないという道はほとんどないということです。制度的にできないということではなく、心理的に不可能なのです。

 すでに戦争は10年も続いていました。徴兵を経て職業軍人となった子どものほとんどは貧しい家の子たちです。もし私が貧しい家の子だったら、同じような境遇の友だちがたくさん死んでいるわけです。もし私が普通以上に豊かな家の子だったとしたら、彼らは私の代わりに死んだのです。そんな状況で召集されて、「ボクは戦争に行きたくない」とはとても言えません。

 さらにもし仲の良い友だちがひとりでも骨になって帰ってきたとすれば、私は復讐心に燃えて戦場に行くことになるでしょう。戦争が日米戦まで進展してしまうと、今度は本土まで攻撃され始めますから、自分の家族を守るためにも行かないわけにはいきません。
 「人間は結局自分が大事だ」などという人もいますが、そんなことはありません。私たちの体には、仲間のために平気で命を投げ出す精神の仕組みが入っているのです。その機能が働き出す前に止めないと、私たちは必ず戦争に行ってしまいます。
 満州事変以降のどの地点が最後の機会だったのか、子どもたちに話しながらもう一度考えてみたいと思います。