カイト・カフェ

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「誰かが別の誰かの成長の踏み台になってはいけない」~障害のある子どもの就学をどう考えるか②

 障害のある子とそうでない子が一緒に学ぶインクルーシブ教育は理想だ
 しかし十分な人員配置や予算のないところで行えば、
 不利益は障害のある子が負わなくてはいけなくなる。
 大切なのは、子どもたちが公平に成長するには、何が必要なのかということだ。

という話。 

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(写真:フォトAC)

 義姉の友人のお孫さんについて、その就学をどうするのか、話をしています。


【なんであんな子がこの学校にいるんだ】

 特別支援学校か特別支援学級か普通学級かという枠で判断するとき、出てくる言葉に「適正就学」というのがある。その子に合った場所で学ぼうという考え方だ。私はこれについて苦い思い出があるのだ。
 それは20年ほど前に勤めていた小学校でのことだけど、当時の私は教務主任をやっていて学校全体についてもある程度の知識と責任があった。

 ある日、市の就学指導委員会の人たちが学校の様子を視察に来た。特別支援学級の子どもを中心に適正な就学ができているか――特別支援学校がふさわしい子が支援学級にいないか、支援学級に入るべき子が普通学級にいないか、それぞれが適切な支援を受けているのか、そういったことを調べるためだ。
 私は学級担任もしていたので実際の観察の場にはいなかったのだけれど、放課後の懇談会の席にはついた。そこで予想もしなかったことを言われた。市の担当者が3年生の児童の名前を挙げて、怒ったように、
「なんであんな子がこの学校にいるんだ」
 そう言ったわけだ。

 あんな子と言われたのは知的にも困難を抱えていたけれど問題は歩行。車いすの生活で、安全を考慮して母親がいつも付き添っていた。特別支援学級に入級していたけど6対4くらいの割合で本来の普通学級で過ごしていて、仲良しの友だちもたくさんいた。とてもいいクラスでね、みんながその子のことを気にかけていつも大切にしているんだ。私としては自分のクラスでもないのに学校の誇りという感じで、その子たちを見ていた。それなのに「なんであんな子がこの学校にいるんだ」はとてもショックだった。

 担当者は重ねてこう言う。
「あの子はね、支援学校に行けば児童会長にもなれる子なんだ。それがこの学校にいるばかりに皆に世話を焼かれ、まるで赤ちゃん扱いじゃないか。あれではまるで成長できんでしょ!」
 学校がムリにその子を受け入れたわけではない、3年前はその委員会があの子の就学を認めたのに、おそらくメンバーが変ったからだと思うけど、こちらが怒られてもかなわん――そうは思ったのだが、言っていることは道理だよね。

 

【誰かが誰かの成長の踏み台になってはいけない】

 特別支援相当の子がひとりクラスの中にいると、周囲の子どもはどんどん良くなっていく。バリアフリーだとか多様性だとか共生だとか、そういうことを学ぶための教材がいつも目の前にいるんだよ、こんな都合のいいことはない。それなのに当の本人は赤ちゃん扱いで成長を阻害されているのだ。
 今、私は酷い言い方をしたよね、教材だなんて――でもそういうことでしょ? 片方が一方的にもう片方の成長を支えている、これではあまりにも不公平だ。

 この経験はのちのち私がインクルーシブ教育とか交流教育を考える上で基礎となった。子どもたちは一緒に成長していかなくてはならない。どちらかがどちらかを踏み台にするようではだめなのだ。

 それから数年経って、私は別の小学校で管理職として特別支援学級に関わった。そこに特殊な病気を持った子がいてね、低学年のうちは何とかなったのが中学年くらいから徐々に苦しくなってきた。
 そこで特別支援学校を勧めることになるのだけど、そのときさっきの車いすの子ことを思い出して保護者に話をしたのだ。周りが成長して本人が停滞するなんて不公平だという話と、「児童会長にもなれる子だ」の話をね。その子は本質的に仕切り屋さんだったから、世話になっているだけじゃいけないのだ。
 翌年、その子は4年生になるきっかけで特別支援学校に転校していった。それからまた2年ほどして、お母さんが突然、学校に訪ねて来てくれて、こう話してくれたのだ。
「先生! ウチの子、児童会長になりました!」
 私たちは手を叩いて喜び合ったものだ。

 障害をもったお子さんの就学、難しいけれど問題だけれどやはり専門家の判断に従うのが一番賢明な道だと思うよ。