カイト・カフェ

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「その難しい世界に、私たちは子どもをいざなう」~反ワクチン派なぜかくも頑固なのか④(最終) 

 インターネットのおかげで私たちの人間関係や活動範囲が広がり、
 世界は狭まった。
 しかしそれで人間たちは幸せになったのだろうか。
 しかもその難しい世界に、私たちが子どもをいざなおうとしているのだ。

という話。 

f:id:kite-cafe:20211014083023j:plain(写真:フォトAC)


 かつて熱烈な進歩主義者で科学万能を信じていた私は、さまざまなコミュニケーション・ツールの発達によって世界が狭くなり、人と人とが触れ合って多くを語り合えば、きっと分かり合え、誤解はとけて平和な世界が生れると思い込んでいました。
 まさか情報が増えれば増えるほどお互いが遠ざかり、理解不能になっていくなど、考えてもみないことです。
 反ワクチンと接種推進という分かりやすい例で考えてきましたが、いま起こりつつあるのは、まさにそういう事態です。
 
 

【半径50mほどの生きていく世界】

 科学や社会の進歩、特にコミュニケーションの広がりが必ずしも私たちを幸せにしないという事例はいくらでもあります。

 私が子どもだった半世紀ほど前、人々の生活範囲は半径50m程度のものでした。
 私の生まれ育った家は2軒一棟の平屋が10棟ほど集まった市営住宅の中にありましたが、そこは地方の中級河川の、堤防を降りた袋小路のような場所であって、外部とはゆるく隔たっていました。父はそこから毎日出勤し、母も毎日500mほど離れた商店へ買い物にいったりするのですが、基本的に線香花火のようにそこから出たり入ったりするだけです。

 私たち子どもも学校に行くために集落を出たり入ったりはしますが、帰宅してからの遊ぶ場も休日の活動の場も、ほぼその枠の中にしかありませんでした。当時の小学生は自転車など持っていませんでしたし、親も気軽に自家用車で子どもの送り迎えをするというわけにはいかなかったからです。
 必然的に異年齢も含めた近所の子どもと遊ぶしかなかったのですが、これがなかなか厳しい世界だったのです。上下関係は明確で6年生の言うことは絶対でしたし、仲間外れにされると行き場がありませんからどんな不条理にも絶えざるを得ません。ジャイアンスネ夫ばかりでなく時には“お局様”も一緒にいたりしましたから、下っ端はほんとうに苦しかったのです。

 今は違います。子どもは生まれた直後から親の広い人間関係のもとで育ちます。親たちは自家用車や電車であっという間に遠くの友人のもとに子連れで出かけて、そこで気の合うもの同士で、似たような養育環境で子どもを育みます。

 子どもは子どもで、ある程度の年齢になると50mの枠を越えて遊びに出かけます。自転車がありますから、どこに行くのも自由です。地域に縛られて嫌な奴と付き合う煩わしさもいじめられる危険もありません。
 そういう点で一義的には幸せな生活を送れるようになったのですが、それが生涯の幸せにつながるかというと難しい面も残ります。というのは嫌な奴と付き合う技術とか、理不尽な連中をうまくかわす術とか言ったものの学習は、小さい時から始める方が有利だからです。
 正しいか間違っているかは別にしても、これをやったらひとは怒るとか、こうしたら面倒くさい先輩でも篭絡できるといったことは、経験によってしか学べないからです。
 
 

【社会の広がりは人を必ずしも幸せにしない】

 考えてみると歴史も、人間関係や社会の広がりが必ずしも幸せにつながらないことを証明しています。
 家族を中心とした小さな集落が、それぞれ離れて点在していた縄文時代は争いといってもたいしたものではありませんでした。それが稲作の始まりとともに人々が水辺に集まり、巨大な集落をつくり始めると穏やかではいられなくなります。
 それから千年たっても、光源氏が明石に流罪になって涙を流しているような状況では、九州の豪族が京に攻め込むような事態は起こりようがありませんでした。
 16世紀になってヨーロッパ人が訪れるようになっても、日本がインカ帝国のように滅ぼされなかったのは、距離の問題も大きかったからでしょう。しかし20世紀になるとそうも言っていられなくなります。
 もしかしたら今の地球が全体として安泰なのは、地球人にも異星人にも互いの関係を詰めるだけの技術がないからだけなのかもしれません。
 
 

【その難しい世界に、私たちは子どもをいざなう】

 インターネットというのは、21世紀が生みだした最初の、偉大な発明(*)と言えるのかもしれません。しかしこうして20年以上使い込んできて分かることは、そう簡単な仕組みではないということです。
*発明自体は20世紀末でしたが、20世紀中はたいして使い物になるものではありませんでした。

 情報の過剰がかえって人々を理解不能な存在にいくこと、遠くの人がすぐ隣にいるかのように錯覚させると同時に、物理的に近くにいる存在がどんどん遠ざかっていくこと、現実と仮想空間で人間関係が二重構造になっていくこと、インターネットを通して人間関係が広がっているのか閉じているのか、それすらも分からなくなってきたこと――ちょっと考えただけでもさいくらでも課題が浮かびます。

 しかしそんなことを考えている間もなく、子どもたちがこの世界に触れ、私たちがそのあと押しをしていることこそ、最大の問題かもしれません。