カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「その正義を全員が誠実に守ったら、人々は幸せになるだろうか」~アメリカの正義と日本の土壌 

 アメリカという国のかたちと、
 アメリカの正義について考えていたら、突然、気づいた。
 人権に対するあの厳しい姿勢はアメリカならではのものであり、
 それをそのまま日本に移植すると、ほんとうに辛くなるのだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201112072950j:plain(写真:フォトAC)

 

【ハラハラ、モラハラ、レイハラ、アイハラ】

 セクハラ(セクシャル・ハラスメント)という言葉は1970年代にアメリカで発明され、その概念は瞬く間に世界に広がりました。当初は「上司・先輩など一定の権力のあるものによる」という条件が付いていたと思うのですが、1990年代に入ってそこから“権力をかさに着た嫌がらせ”がパワー・ハラスメントという名で分離したと記憶しています。

 日本に輸入されてると「ハラスメント」は「言われたりされたりすると嫌なことを強要する言動」と拡大解釈され、学校における「スクハラ(スクール・ハスメント)」、大学における「アカハラ(アカデミック・ハラスメント)」、妊婦に対する「マタハラ(マタニティー・ハラスメント)、飲酒を強要する「アルコール・ハラスメント」、タバコの煙害に関わる「スモーク・ハラスメント」、モラルを根拠とする嫌がらせ「モラハラ(モラル・ハラスメント)」、体臭や口臭に配慮を欠く「スメハラ(スメル・ハラスメント)」、血液型で相手を極めつける「ブラッド・ハラスメント」、麺類をすする音が嫌いな人に配慮しない「ヌーハラ(ヌードル・ハラスメント)」、映画『鬼滅の刃』に関するウンチクを聞かせたり見ること強く勧める「キメハラ(鬼滅の刃ハラスメント)」――そんなものが次々と出てきて、行きつくところは「ハラスメントだ」「ハラスメントだ」と相手を追いつめる「ハラハラ(ハラスメント・ハラスメント)」。
――私などは早く隠居できてほんとうによかったと思います。今、現場に戻ったら1時間ともたないでしょう。

 朝、生徒に会って一番に元気よく「おはよう!」と声をかけてそれとなく返事を強要する「アイハラ」、教室に入って全員を起立させ「礼!」と号令をかけて互いに頭を下げさせる「レイハラ」、やりたくもない宿題を提出させる「宿ハラ」、聞きたくもない講話を聞かせる「講ハラ」――。

 訂正します。「1時間ともたない」のではなく「5分で終了」です。
 
 

【ハラスメントの拡大がもつ二つの問題点】

 からかっていますが、もちろん世の中には解決すべき深刻なハラスメントがあることは承知しています。しかしこんなふうに『ハラスメント』を無定見に広げていくことが、かえって深刻なハラスメントを見つけにくくしているのではないのかと、そのことを心配しているのです。

 ときおり学校で信じられないようないじめ事件が起こったりするのも、もしかしたら教師たちが子どもの成長期にありがちな普通のトラブルまで、全部「いじめ」として重く扱い対処しなくてはならないからかもしれません。しばらく様子を見ていれば互いに成長できるような些細なトラブルにもいちいち早期に介入し解決を図ろうとするので、陰で行われる深刻ないじめはむしろ見過ごされてしまう――。

 同じようにセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントについても、例えば親が自分の子どもに結婚しろということまでセクハラ・パワハラだということになると、深刻に対決しなくてはならないハラスメントの所在が見えなくなってしまいます。

「木の葉を隠さば森の中、人を隠さば人の中、ハラスメント隠さばハラスメントの中」
とも言うでしょ?

 もう一つの問題は、この無定見なハラスメントの拡大が、果たして私たちを幸せにするだろうかということです。人と人が触れ合えばそこには自然と様々な軋轢や困難が生れます。嫌な思いをすることもたくさん出てきます。例えば体臭や口臭の問題にしても、もちろん本人が気を遣うべきだという面はあるにしても、わざわざ匂いのついたシャツを押し付けるとか息を吹きかけるといったことでない限り、被害を受ける側が巧みに避けたりさりげなく教えてあげたりと、何らかの工夫をしたり我慢したりしなくてはならない面もあると思うのです。

 ラーメンをすする音に傷つく人がいるかもしれない、他人が楽しかったことを聞くのが苦痛で仕方がない人がいるかもしれない、そんなふうに考え始めたら一歩も前に進めなくなり家に籠っているしかなくなります。しかし家に引き籠っていると籠ることのできる状況――最低限の生活ならできる経済力や家族関係をもっていること――を羨み、傷つく人だっているかもしれないのです。
 
 

アメリカのパンドラの箱

 私は “ハラスメント”などのアメリカで生まれた人権にかかわる概念を日本に移す際は、そうとうな注意が必要だと考えています。

 先日も申し上げた通り、合衆国は1年間に7万人の子どもが誘拐され、1000人以上の女性が夫によって殺され、銃に関連した事件や事故・自殺で3万~4万人もが命を落とす国なのです。
 多様性の国、可能性の国、そして世界で最も繁栄したエネルギッシュな国です。それだけにそこに渦巻く欲望、妬み、憎しみ、怒り、蔑み、暴力、破壊、欺瞞、対立――それらは際限がありません。
 アメリカはそうしたものをすべて、時間をかけて丁寧に箱に押し込め、公平・公正・中立・人権といった理念の蓋を被せたのです。それがアメリカのパンドラの箱です。
 中の圧が強い分、重石も強力でなくてはなりません。

 映画のアカデミー賞では来年から、主演男優賞・主演女優賞といった男女の分け隔てをなくすという話がありました。俳優であることに男女の違いはないということなのでしょうか?
 女性を既婚者と未婚者で分けるミセス(Mrs)・ミス(Miss)といった言い方がなくなって久しいと思いますが、今や人間を区別したり差別したりできる一切の概念について表に出さないようになっています。
 例えば履歴書に年齢及び生年月日はおろか、性別、婚姻状況及び結婚歴、家族構成や子どもの有無さえ書くことはありません。書かなくていいのではなく書いてはいけない――雇用差別禁止法によって禁止されているのです。もちろん人種や美醜が明らかになってしまう顔写真も添付してはいけません。

 いつぞや日本の夫婦が、ロサンゼルス空港かどこかで子どもを怒鳴り上げために逮捕されるという事件がありました。叩くのはもちろん怒鳴っても虐待なのです。子どもを一人で電車に乗せたり、子どもだけで留守番をさせたりするのも虐待です。

 私たちの感覚からすると異常な厳しさですが、そこまでしないと子供や女性やマイノリティを守れない――それがアメリカの現状です。
 重石は重ければ重いほどいい、しかしそんな最重量の重石をヤワでなよやかな籐細工のような日本の籠に乗せたらひとたまりもありません。
 
 

【その正義を全員が誠実に守ったら、人々は幸せになるだろうか】

 日本は読みと察しの国です。アメリカとは別の意味での「本音と建て前」の使い分けがあります。
 他人の夫を「ご主人」と呼んでも、それでその妻が奴隷になるわけでも殺されるわけでもありません。度が過ぎれば割って入りますが、街中で子どもが厳しく叱られていても、通常のしつけとして見過ごしても事件に繋がることはないでしょう。

 たしかに差別がないわけではないし、年齢や性別、家族の有無が就職に影響を与えることもあるかもしれません。しかしそれもひとつひとつ対応していけばいい問題で、法律の網目を細かくかけてがんじがらめにする必要も、今のところはありません。
 そんなにギンギンに責めなくても、人はお互いを守り合って生きていけます。

 もちろん正義は大切です。しかし過剰な正義は人間関係を窮屈にし苦しめます。
 そしてその判断の分かれ目が、
「その正義を全員が誠実に守ったら、人々は幸せになるだろうか」
だと、私は知っています。