若い人たちは私たち年寄りのことをどんな目で見ているのだろう。
歌や漫画に出てくる老人は実年齢よりさらに年老いている。
それはまさに若者が年寄りを見る目そのものではないだろうか。
私たちは思った以上に、つまらない存在と思われているのかもしれない。
という話。
(写真:フォトAC)
【人生が二度あれば】
先週、NHKのニュース解説の番組を見ていたら、お堅い番組であるにもかかわらず、49年前の井上陽水のデビューシングル「人生が二度あれば」が流れてきました。
人生が二度あれば
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
(中略)
湯飲みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
という歌です。
解説者の目論見としては、半世紀前の65歳はこのように年老いていた、しかし今の65歳は元気で――ということで高齢者雇用の問題に話を振り向けたのですが、私はふと考え込んでしまいました。
【65歳はどこまで年寄りか】
私は亡くなった父が30歳の時の子どもです。したがって父が65歳の時、私は35歳でした。娘が生れた年ですからよく覚えているのですが、当時65歳の父はそこまでヨボヨボではなかったのです。
娘の生まれる半年ほど前、いきなり父から電話がかかってきて、
「いまどこにいると思う?」
と聞くので、
「そんなこと、わかるわけないだろう」
と返すと、家から500kmも離れた場所を言い、
「今朝、思いついて車で母さんとここまで来た」
とか言います。60歳を過ぎた年寄りにそんなに走られてはかないませんから、少し嫌味を言ったかもしれません。そのくらい元気だったのです。
「人生が二度あれば」と少し感じが違います。
調べるとこの曲は井上陽水が24歳の時に発表されたものです。したがて「父は今年二月で 六十五」が実話だとすると、二十歳に近い陽水の見た65歳です。35歳の私の見る65歳とは違っていたのかもしれません。若い人ほど、同じ65歳でも年老いて見えるのかもしれないということです。
【波平さんは54歳】
同じことは漫画「サザエさん」についても言えます。
よく知られた話ですがサザエさんのお父さんの波平さんは永遠の54歳です。
頭頂部が禿げて毛が一本立っているだけで、丸めがねにちょび髭を生やし、家ではいつも着物を着て正座で過ごしています。そんなふうで、だから相当な年長者の印象がありますが、考えてみると現役のサラリーマンですから60歳前は当然です。
趣味は囲碁・盆栽・釣り・俳句・骨董品の収集とかなり幅広いですが、釣り以外はすべて老人の印象を伴うものばかり。
原作者の長谷川町子さんは14歳でお父さんを亡くしていますから、「24歳のサザエさんの54歳のお父さん」というキャラクターを設定しようとしたとき、現実の50歳代の父親の見本がないため、心象の中にある54歳を手本に移し替えたのかもしれません。それがあの年老いた波平さんです。
【若い人から見ると老人はやはり――】
若者の見る年寄りは、実年齢よりもさらに更けているのかもしれない。それは老成という概念と深くつながっているようにも思えます。
私は三十代も四十代も五十代も経験してきましたから、それがまったく大したことないことをよく知っていますが、未経験の若者からすれば、未知の、何か謎めいた遠い存在ということになりそうです。すると必然的に、はるか向こうの世界の人ということになってしまいます。
考えてみると私自身が二十歳のころ、三十代の大人はかなりしっかりして迷いなく人生を送っていました。四十代・五十代の中年諸氏は人生に恐れるものがまったくなく、力ずくで社会を振り回していました。そして六十代ともなるともうほとんど仙人の世界です。具体的な姿は思い浮かびませんが、未来に夢もなく、過去を振り返ることを糧に日々、死ぬ日を待っている、その程度の存在だと思っていたのかもしれません。社会的にはまったく役立たず、年金という形で税金を食いつぶし、やがて誰かの世話になっていく――。
「人生が二度あれば」の二番では母親が登場し、
そんな母を見てると 人生が
だれの為にあるのか わからない
とまで歌われます。
若い人から見ると高齢者なんて少しも羨ましくない。人は学校も就職も結婚も自分で決められるのに、いつ死ぬかだけは(自殺を考慮しなければ)自分で決められないのです。井上陽水の歌にあるように、年老いた自分の姿を湯呑の中に見つめ、ただ死を待つ毎日――ああ、ヤダヤダ、といったところなのでしょうか?
(この稿、続く)