カイト・カフェ

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「アメとムチで、どこまで子どもを伸ばせるか」~NHKドラマ「こもりびと」を観て④

 子どもの学業やスポーツにおける成績を伸ばすために多様されるアメとムチ。
 それにどの程度の効力があるのか。
 注意しなくてはならないのは、アメにもムチにも限界があるということだ。
 しかもその限界は思ったよりも間近なところにある。
という話。

f:id:kite-cafe:20201203071342j:plain(写真:フォトAC)

【結局殴られるなら、努力しない方がマシ】

 私は行動主義心理学というのを学んだことがありますが、行動主義というのはつまるところ「アメとムチの使い方について考える学問」だと言えます(言い過ぎだったらすみません)。
 つまり学問として成り立つくらいアメとムチの使い方は難しいのです。

 例えば、暴力は明らかに人に行動を促す大きな要因です。
 父親が、
「テメエ、今度のテストで400点取らなかったら容赦しねえぞ」
と言って、子どもが“容赦しない”の意味を暴力だと理解し、父親のこれまでの実績からするとまず確実に半殺しにされると思ったら必ず勉強します。
 ただし何度も言っているように、いつもは300点前後しか取れない子がいきなり400点以上とることはまず不可能です。そこで半殺しの目にあう――。
 次の試験前にも「容赦しねえぞ」が出て、やはり400点に手が届かず、また半殺しにされる、その次も半殺し――そうした子どもはやがてどうなるでしょう?
 例が過激すぎて「殺される」も答えになってしまいそうですが、予定していたのは「勉強をやめる」です。
 何回努力しても殴られるなら、努力しない方がマシだからです。


【暴力に全く抵抗しない子たち】

 私が中学校の教員をしていたのはもう30年も昔のことで、当時は教師の面前でも子どもに暴力を振るう親はたくさんいました。特に生徒指導などで親子両方を呼ぶと、自分はきちんと指導をしているのだと言わんばかりに、いきなりぶん殴る親がいて困ったものでした。
 もちろん当時の私たちだって止めに入りましたが、突然だと間に合わないことも多く、自分より年長の父親に「これは家庭の問題だ! 割り込んでくるな!」などと凄まれると、思わず怯んだりすることもあったのです。ここ10年余りは「私たちには虐待の通報義務があります!」と叫べばいいのでずいぶん楽になりましたが。

 とこでそうした場面をいくつか経験するうちに、私は暴力を受ける側の子に不思議な反応をする子が何人もいることに気づいたのです。
 まったく抵抗しない、避けようともしない、痛みで涙がボロボロ落ちて鼻血もボタボタ机に滴っているのに手を顔に持って行こうともしない。10年余りの中学校教員の経験の中で、私はそんな子を3人も見てきました。そもそも親の暴力場面なんてめったに目にするものではありませんからその中で3人はとんでもなく大きな数です。

 教師の前でも殴るくらいですから日常的にも殴られていたのでしょう。抵抗すれば「なぜ逆らうんだ」と殴られ、避ければ「避けるんじゃない」と殴られ、鼻血を押さえようとすれば「余計なことをするな」とまた殴られる。そうした経験から彼らは何もしないことが最善の策だとは学んできたのです。
 こうなると暴力で子どもを動かすという方法も、まったく効かなくなってしまいます。しかもそればかりか、暴力に頼る以前よりはるかに悪い状況になっているのかもしれません。何もしなくなるわけですから。


【学習性無力感】

 暴力が無効だとなると、あとは「もの」や「こと」で釣るしかないのですが、それだって優しいものではありません。〇〇点取ったら「海外旅行に連れて行ってやる」「プレイ・ステーション5を買ってやる」とかいったアレです。
 この“アメによって動機づけを計ろう”というやり方の最も難しい点は、アメと目標との価値の対応です。

 海外旅行はピンキリですが10万円程度で行けるところも少なくないでしょう(コロナ禍がないとしてです)。PS5(プレイステーション5)もだいたいその程度の値段です。さてそうなるとこれをテスト点に換算すると何点くらいになるのかが当面の問題となります。
 もちろん家庭の経済力によって大きな差はありますが、5教科で300点を320点に上げたら10万円の旅行またはPS5だということだと1点5000円。これでは親は納得しません。10万円に見合う成績となれば50点アップか100点アップ――となって、結局「目標400点」という、とうてい手に入らないものとなってしまいます。それは、何度も言いますが、達成できない。

 2度挑戦してだめ、3度挑戦してもだめとなると最後に行きつくところは「海外旅行もPS5もいらない。そしてもう頑張らない」という、暴力の場合と同じ場所です。
 これを心理学では「学習性無力感」と言います。NHKドラマ「こもりびと」の陥っていた状況がまさにそれです。
 暴力で子どもを動かし続けることはできません。ご褒美で釣るにしても、「20点あげたらプロ野球観戦な!」くらいにしておけばよかったのです。


【昔の親は――】

 「こもりびと」の主人公が父親から投げつけられ記憶していたいくつもの言葉、
「わざわざ進学校まで行ったのに、国立受験失敗は自己責任だな。自分を甘やかしているからだ」
契約社員? 大学まで出してやったのになんで正社員になれないんだよォ。非正規なんてお前、アルバイトじゃないか」
「氷河期だって言ったってなぁ、何人も正社員になったやつはいる。まったくあいつは努力が足りないんだ」
「なんで仕事辞めた。母さんの介護にかこつけて逃げてるんじゃないぞ」
「コラ起きろ! 結婚はできないわ、仕事は続かないわ、恥ずかしくないか。少しは俺の立場も考えろ。このままだとお前、家族の恥さらしだぞ」

 つらい人生でしたね。
 こんなふうに言われ続けて無力感に陥らない人はいません。父親の無理解が主人公をここまで追いつめた、結局は親が元凶だった――そう書きかけて、私はふと迷います。
 引きこもりだの不登校だのがなかった昔、例えば私が子どもだった時代の親たちは今以上にきちんとした子育てをしていたのでしょうか? 「こもりびと」の父親のような愚かさはなかったのでしょうか? そう考えると全く違った思いに駆られるのです。
 そうです、あの頃の親はもっとろくでもなかった、そんなふうに思えてくるのです。

(この稿、続く)