「体罰の問題」⑤〜障壁の超克、体罰の普及性

 

 桜宮高校の場合がそうでしたが、体罰がもっとも頻繁に使われる場は部活です。それには理由があります。顧問の一部は“体罰”がチームや選手の限界(力の障壁)を超えさせる力があると信じているからです。

 

 部活というのは学校生活の中でも極めて特徴的なもので、目標と到達点、評価がはっきりした活動です。それに匹敵するのは“受験”だけですが受験がしばしば生徒たちのモチベーションを高めるのに苦労するのに対し、部活はそういうことはありません。多くの場合、部員は選手やメンバーに“なりたい”と思っていますし、試合やコンクールではコートやステージに “立ちたい”と願い、“勝ちたい”“賞をとりたい”と本気で念じています。そうでない子はもともと部活には来ていません。ですから組織をまとめる、個人を伸ばす、あるいは言うことをきかせるという意味で最もやりやすい場なのです。普通にやる分には。

 

 しかし“普通”の枠を超えて“県大会に出場する”とか“全国大会に行く”とか、そのチームや個人の今の実力ではかなわない夢を追い始めると事情は変わってきます。どこのチームでも誰でも持つようなモチベーションだけでは、そうした高みには立てないからです。より多くのアメ(たとえばプロからのスカウト)を与えてモチベーションを高めるか、大きなムチがなければダメだと考える人が出てきます。

 もちろんムチなしで偉大な成果を上げる優秀な監督・コーチはいます。しかし割合からすると、やはりそれはごく少数のエリートで、彼等と伍して戦うには普通の監督の普通の采配ではムリなのです。そこで暴力が顔を出します。

 

 選手を殴れば成績は上がるのかという問題には深入りしません。実際のところ私には分かりません。ただしチーム全体が引き締まり、実力以上の力が発揮できるかもしれないと思うところはあります。それは「体罰の抑止力と効果の普及性」のためです。

 

 前に「体罰を行うのは必ずしも“その子”を抑えようとか育てようということではない」と申し上げました。多くの仲間の前で叱責されたり殴られたりする子が、素直に反省する例は稀です。それにもかかわらず教師が体罰を行うのは“その他の子”がターゲットだからだというお話です。

 

 部活の場合も同じです。体罰によって果たそうとするのは“その子”ではなく、“その他の子”のの意識変革・技能向上なのです。殴られる“彼”がこの次も殴られないように、ほかの子ががんばるのです。その子が指摘された欠点や問題性を、“その他の子”が克服しようとするのです。このときの動機付けは「ああは、なりたくない」とともに「アイツを殴らせたくない」です。

 

 したがって(以前の学級で問題を起こす子の場合もそうですが)、殴る相手は誰でもいいというわけにはいきません。ひとつの暴力で簡単に凹んでしまう子も、すぐにギャーギャーと大人に訴える子もダメです。ある程度タフで怒られたり殴られたりすることに耐性のある子でなければなりません(その点で「クラスの悪い子」はとても貴重な存在です。小さなころから怒られ慣れていますし、それで凹んだり傷ついたりしないから今も「悪い子」なのです)。そしてもう一人、立場上、殴られる理由のある存在も殴るに値します。主将・キャプテンです。

 

 桜宮高校の事件では亡くなった生徒が「なぜ自分ばかりが殴られるのか」と自問していたそうですが、それはキャプテンだったからです。さらに皆が「殴らせたくない」と思う存在、それだけの人格者だったから殴られたのでしょう。チームにとって「どうでもいい子」は、殴っても監督のこぶしが傷むだけで何のメリットもないのです。

  (この稿、続く)