カイト・カフェ

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「大人と子どもは違うだろう」~東京都議会ツーブロック問題③

 大人の世界ではスタンダードだからといって、
 それで子どもにも許されるべきだというのはおかしだろう。
 校則を決めるときは、子どもの意見も聞くべきだといったもっともらしい意見も、
 よく考えてみよ、そこには大きな落とし穴があるぞ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200722062130j:plain(「夜の都議会議事堂前」 フォトAC より)


【もう一つの、校則の重要な機能】

 先週の「キース・アウト」で扱ったBazzFeedの記事『事件に遭うからツーブロック禁止? 都立高校の校則に「意味不明」「データはあるのか」と批判殺到』について続けて書いています。

 昨日は「校則はくだらなければくだらないほどいい、そのくだらない部分で戦っている間は重大な事故は起こらない」という視点からお話をしました。しかし校則――特に服装やアクセサリー・髪型に関する校則には「心のサインの発生装置としての機能」という重要な側面もあり、これについて理解しておく必要があります。
 だたしこの件はつい昨年の9月に「心のサインの発生装置」という形でお話ししたばかりですので、そちらを参考にしてください。

kite-cafe.hatenablog.com


【大人と子どもは違うだろう】

  さて、BazzFeedで紹介された東京都議会の池川議員の発言には気になる部分がいくつもあるのですが、そのひとつは議員の基本的な考え方に、「大人社会で定着しているものは子どもの社会でも許されるべきだ」と言ったものがあることです。

 例えば、
 大人の世界ではツーブロックは非常にスタンダードな髪型です。清潔感のある髪型と言っても良い。そうであるにもかかわらず、学校では禁止されています。
 あるいは、
 文科省は最終的に校則を決めるのは校長の権限であるとしています。ですが、会社であれば社長が最後に決めるとしても、その過程でいろいろな意見を聞くのではないでしょうか。校長が一方的に校則を押し付けて良いということにはなりません

 こうした発言が私の目に留まるまでの間に、東京都議会のすべて議員の心のフィルターを通過し、記者のフィルターも編集長のフィルターも通って、さらに幾百万の読者の心のフィルターも通過して、どこにも引っ掛からなかったことに驚愕します。
「いや、大人と子どもは違うだろう」と、誰ひとり思わなかったのでしょうか?

 大人社会で一般的になっているもの――外見に限っても、ピアスやイヤリングはすぐに思いつきます。髪を染めるのも、化粧をするのも、もはや男性であってもかなり一般的でしょう。女性のハイヒールやパンプス(どう違うんだ?)、男性の高級腕時計、それらも当たり前です。
 しかし学校では許されていない。

 逆に家を出るところから制服という企業もそうはないでしょう。たいていは私服で出勤して職場で着替え、帰りも制服は職場に残して私服で帰るのが一般的です。もちろんスーツが制服替わりというサラリーマンもいますが、必ずしも通勤をスーツでする必要はありません。実際にスポーツバイクで通勤するような人たちは、職場で着替える人も多いのです。
 それなのに制服のある学校の中高生は制服で登校することが強制されています。

「大人社会で定着しているものは子どもの社会でも許されるべきだ」が原則なら、それらはすべて反していると言えます。しかしそうではないでしょう?
 大人と子どもは違うのです。

 子どもは未熟であって、それゆえに養育され、教育されるべき対象とされます。また同じ理由で社会的から守られ、多くの苦役から解放されています。
 子どもは子どもゆえに自分の現在や未来についてすべて自由に決めることはできません。その代わり責任からも一部免除されているのです。
 したがって大人社会でスタンダードであることでも、子どもに許さない場合が多々あるのです。
 
 

【議会の話し合いと学校の話し合いも決定的に異なる】

「校則は大人によって変わるものでなく、子どもたちの意見を聞いて変わっていくもの」
というのもよくある誤解です。

 池川議員は
文科省は最終的に校則を決めるのは校長の権限であるとしています。会社であれば社長が最後に決めるとしても、その過程でいろいろな意見を聞くのではないでしょうか。校長が一方的に校則を押し付けて良いということにはなりません
とおっしゃいますが、社規社則を改めるのにいちいち社員の意思を訊ねてから行っているという話は、寡聞にして聞いたことがありません。
 しかしあるとしても、それは企業の構成員が大人であり全体が目的集団であるから可能なことなのです。そこには言わなくても「企業収益を上げてしかも社員の福利厚生に資するうえで是か非か」という条件がついていて、人々はその範囲でものごとを考えようとします。
 ところが学校は、同じ年度に生まれた同い年の子が、同じ地域に住んでいるというだけの理由で寄せ集められた非目的集団です。物事を考えたり判断したりする共通の基盤がないのです。

 ですから「ツーブロック是か非か」といった話をいきなり議論の遡上に乗せると、あっという間に「是」で決まってしまいます。大部分の子どもたちにとってツーブロックは「どうでもいい類の話」だからです。
 ツーブロックにしたい子は是。したくない子やどうでもいい子も、敢えて反対する理由もないから「是」。それで終わりです。

 これはおそらくピアスでやっても茶髪でやっても同じでしょう。稀に「やはり学業の場である以上は、華美な服装や髪型、アクセサリーはいかがなものか」という正論を訴える子もいるかもしれませんが、少数派なので議論の場では無視。終わった後で陰で推進派にいじめられるだけです。

 実は学校における話し合いというのは東京都議会や国会とはまったく違った方式で行われているのです。
 そのことについて、教員以外の人々はほとんど気づいていません。

(この稿、続く)