「子どもに任せられるのはどちらに転んでもいい場合だけ」~東京都議会ツーブロック問題④

 皆で話し合いをすれば必ず良い答えにたどり着くというのは幻想だ。
 特に未熟な子どもたちに任せれば、議論はどこへ向かうか分からない。
 さまざまなものの見方、社会のありかた、少数意見を大切にすること、
 もの言わぬ人の気持ちに心を寄せること、わがままを抑え全体との調和を計ること、
 話し合いの前提となるこれらすべては、
 いま、まさに話し合いを通して学習中だからだ。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200727070925j:plain(「東京都議会堂」フォトAC より)

 
 

【話し合いは必ずしも確実な解決の方法ではない】

  話し合いは民主主義の基本ですが、どんな問題も話し合いに付したら正しい結論、良い答えにたどり着くと考えるのはあまりにもお人よしです。

 国会をごらんなさい。
 話し合いのプロ中のプロでそれが最大の仕事であるはずの国会議員でさえ、しばしば議事を放棄したり同じ質問を繰り返して時間を稼いだり、与党が数を頼んで勝手に話を進めたり強行採決したりと、とてもではありませんが話し合いのお手本というわけにはいきません。
 地方議会も同じ、住民説明会における話し合い等もみな同じです。それに比べたら会社の企画会議の方がよほどうまく運びます。

 なぜ議会や住民説明会はダメなのに企業の企画会議はうまくいくのか?
 答えは簡単で、企画会議の場合は参加者に力関係があるからです。「何やかや言っても最後は役員会が決める」といったタガがあって、その枠の中で話が進むから楽なのです。煮詰まったらそこに逃げ込めばいい。役員たちは自己の意思を押し通すことができるわけですが、その代わり責任も取ることになります(取らない人もいるかもしれませんが)。

 議会も、「何やかや言っても最後は与党が決める」みたいな面もありますが、それでも与党がゴリ押ししても、野党が早々に諦めても、次の選挙に響きますから自ずと節度は生まれます。しかし学校の、あるいは教室内の話し合いというものはそうは行きません。
 
 

【しかし学級会は完璧なものでなくてはならない】

 学級会は、議会のように発言すること自体が仕事で、黙ったままだと次の選挙に差し支える人ばかりで構成されているわけではありません。また、企業の会議のように背後に昇進や賞与がちらついているわけでもありません。もちろん住民説明会のように“モノ申したい”人ばかりが出席してくるわけでもないのです。
 とりあえず“参加者全員が意見を持っている”ということがありません。全員に関心のある議題というものがないからです。

 例えばツーブロック是か非か――。この問題については、少なくとも女子の大部分はどうでもいいと思っています。男子でもファッションに興味もない子はいますし、丸坊主が当たり前だと思っている野球部の子などは、むしろ反感を持ちます。
 文化祭の学級展示は何にするか――“学級展示などという面倒なことは、そもそもやめてほしい”が本音の子はたくさんいますから基本的にはどうでもいい話です。
 席替えをどのように行うか――。これだとグッと体を乗り出してくる子は増えます。しかしそれすらどうでもいい、隣の子が誰だってかまわないという立派な子も少なくありません。

 議題に深刻さがないからといって、しかし学級会を中途半端に始めて中途半端に終わらせることもできません。なにしろ民主主義の訓練が主眼ですから、常に真剣なものでなくてはならないのです。
 全員が関心を持つこと、大多数が意見を持ち、できるだけ多くが発言に結び付けて結論はクラスの総意であるという形に持ち込むこと、それが果たされなくてはならないのです。

 また、いったん始まった話し合いは雲行きが怪しくなったからといって途中で割って入り、「ハイ! ここまで。変な結論になりそうなので打ち切ります!」などということはできません。そんなことをしたら“民主主義も強権に屈しなくてはならないことがある”と教えるようなものです。小学校の低学年ならまだしも、高学年以上の子どもは二度と話し合いなどしてくれなくなります。言ってもダメなら言わないに越したことはありません。
 
 

【結論は初めから決まっている】

 そこで担任は話し合いの前にさまざまな仕掛けをします。その議題がいかに重要な問題か――ツーブロックならそれがファッションの問題ではなく、表現の自由とか学校の秩序とかに関わる重要なテーマであることをしっかり理解させてから始めるのです。

 しばしば“いじめ”について、保護者もマスメディアも「子どもたち同士で話し合ったらどうですか」などと言いますが、生々しいクラスのいじめ問題を不用意に議題に乗せれば、あっという間に被害者がなぶり者になる大糾弾大会、もしくは人民裁判になりかねません。
「被害を訴えている子が反省し、真剣に態度を改めればいじめられずに済むのだから、まずその子が変わることが大切」
 そんな結論でいいはずがないでしょう?
 いじめに関する話し合いの結論は、「いかなる理由があってもいじめはしてはいけない」だけです。「ケース・バイ・ケースでやっていい場合もある」とか「正しいいじめもある」でもいけないのです。

「子どもが子ども自身で決めた結論は絶対」が原則である以上、担任は全力で情報収集をし、前もって道徳の授業などで生徒の心を何度も耕し、
「ああこれでどんな大逆転があろうとも、最後は『いま、目の前のいじめ問題を解決し、いじめのないクラスをつくろう』という結論になる」
 そう確信を持って初めて、話し合いの俎上に乗せることができるのです。
 
 

【子どもに任せられることはどちらに転んでもいい場合だけ】

 いい加減な準備のまま子どもたちに話合わせていいことは、どちらに転んでもいい場合だけで、重要な課題は常に慎重に扱わなくてはなりません。

 修学旅行の見学先、最後のひとつは金閣銀閣か――は話し合いになります。訪問地として価値に大差がないからです。
 しかし旅行そのものを奈良・京都にするかディズニーランド・ディズニーシーにするかは議題となりません。それを議題とするには、学校側に目的自体を変えてもいい、ディズニーランドでも構わないという腹積もりがなくてはならないのです。

 校則に関する話し合いも同じです。
 池川東京都議は「校則は大人によって変わるものでなく、子どもたちの意見を聞いて変わっていくものだ」などとおっしゃいますが、意見を聞いた上で握りつぶすのは、先ほども言ったように最悪手です。
 意見を聞かれれば十分の一あるいはでも百分の一なりとも実現する可能性があると考えるのが普通です。それを無碍に踏みつぶすなら、最初から聞いてはいけないのです。それが教育の鉄則です。

(この稿、続く)