日本の教育は世界一だが完璧ではない。
政府もマスコミも、完璧でないことをもって教育改革を叫ぶが、
ほぼ健康な体にメスを入れるのはいかがなものか。
もうしばらく、対症療法で様子を見てはいけないのだろうか?
という話。
(「休日の校庭」 PhotoACより)
【日本の教育は世界一だが完璧ではない】
日本の教育は世界一だといえば当然、「そうではないだろう」「イジメはどうした?」「不登校はどうなった?」「PISAの読解力は15位といった体たらくだ」ということになりかねません。
――確かに。
ただし私は「日本の教育が完璧だ」といっているわけではありません。完璧ではないが世界一だと思っているのです。
そんな例は世界中にいくらでもありますでしょ? 例えば最先端であって世界一の自動運転車というものは(たぶん)ありますが、完璧な自動運転車はまだできていません。それと同じです。
もっとも教育と自動車産業を並べるのはあまり適切な例ではないのかもしれません。
完璧な自動運転車はいつか完成しますが、完璧な教育というものが成立するかどうかはかなり疑問だからです。教育を構成する様々な要素は有機的に絡みあっていて、一か所に手を入れることがあちこちに予期せぬ影響を与えるとこともあると考えられるからです。
【不登校といじめ問題を劇的に減らす方法】
不登校やいじめ問題を例に考えてみましょう。実はこれらをほぼ完全になくす方法というのも、あるにはあるのです。
不登校の専門家の富田富士也という人は、かつて、
「不登校の子が学校に行けないのは、そこが人間関係を強制するからだ」
と言ったことがあります。まさに慧眼の至りです。
特に日本の学校の場合は、部活に行けばチームワークを強制され、校内にいる限り委員会活動や学級内係、日直当番や清掃活動と常に誰かと協働することが強制されます。授業も話し合い重視、実験重視、体験重視ですからどうしても人間関係が絡んでくる。
もちろんそれには理由があって、日本では学校の責任として児童生徒につける力(生きる力)の中に、わざわざ「豊かな人間性」を入れて(他の二つは「確かな学力」「健康・体力」)、学校は全エネルギーの三分の一を費やして人間関係づくりをするよう求められているのです。
それが一部の子には煩わしい。
もし学校が三本の旗のうちの2本を降ろし、「確かな学力」一本にすれば、いずれは一部の識者の言う通り、インターネットを通してAIが指導する在宅学習が主流となっていきます。
子どもにとっては登下校の手間が省け、行政は学校施設の維持管理・給食補助などの一切を減らすことができます。特に人件費の大部分がなくなることは大きく、教育予算は激減します。
そもそも登校しないのですから“不登校”という概念も変わらざるを得ないでしょう。
いじめ問題も100%なくなります。
なぜなら平成25年度から使われている「いじめの定義」は、
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」
だからです。AIによる在宅学習では「一定の人的関係のある他の児童生徒」自体が存在しませんから、定義に当てはまる事象は起こりようがない。
最近、主として教員の働き方改革の観点から「部活動の縮小」「行事の削減」「教科教育への専念」などが叫ばれていますが、教員はダシに使われているだけで、真の理由は子どものどうしの関係を希薄化することで、不登校やいじめを少しでも減らそうということなのかもしれません。
【今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていく】
さて、ここでようやく話は、私の両足の裏にできたウオノメに戻ります。
昨年4月に、ダイエットを目的に始めたジョギングは、同時に私に健康と筋肉をもたらしました。長距離の歩行に対する自信も重要な賜物です。ところがその、良き方向に進んでいた流れが、ここにきてウオノメの復活という形で阻害され始めたのです。
健康も自信も、ウオノメも、ともに同じところから生まれてきた――そこがミソです。
同じように、和を貴び、思いやりやおもてなし・忖度・場の空気を読むと言った高度な技術を磨き、大規模災害でも余すことなく機能する集団性や協働性を育ててきた日本の教育は、まさにその働きによって不登校やいじめを生み出してきた――そう考えることに何の矛盾もありません。
ならばどうするのか――。
考えられる方法は四つです。
一つ目は、前述のとおり「豊かな人間性」を求める教育をやめてしまうこと。
(これには賛成できません)
二つ目は「豊かな人間性」を追求しながら不登校もいじめ問題も発生しない、まったく新しい教育の目標と方法を編み出すこと。
(ただしこれには私の能力は追いついていません)
三つ目は、今やっていることをさらに徹底すること。不登校もいじめ問題も飲み込むほど徹底した集団性、協働性を育てること。
(この方法にはさらなる不登校といじめを生み出す可能性もあります)
第四に、放置すること。
(もちろん不登校やいじめ問題を放ったらかしにはできませんからその都度対処します。いわば弥縫策です)
私の答えは4です。
完璧ではありませんが現在の日本の教育は、少なくとも150年の歴史がつくった世界の宝石なのです。これを根底から覆す決定的な教育方法論が生れない限り、あるいは現在のやり方が完全に行き詰まらない限り、「将来はこうなるだろう」といったあいまいな予言によって変化を加えるべきではないと思うのです。
私はウオノメをナイフで削りながらジョギングを続けましょう。同じように、基本的には非常にうまくいっている日本の教育には、根本的な変更を加えるのではなく、今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていくべきだと思います。