「わが青春の『ナチチャコパック』」~2019年春の蓋棺録3

 今から50年前
 当時の若者には ラジオの深夜放送が文化の発信基地だった。
 ラジオの深夜放送が 心の支えだった
 「ナチチャコパック」は私の青春そのものだった

 という話。

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 【深夜放送全盛時代】

 1970年前後というのはラジオの深夜放送の黄金時代で、当時の若者はここから集中的に情報を得ていました。男の子の場合、あとは「平凡パンチ」だとか「プレーボーイ」といった雑誌が頼りでしたが、高校生がそのたびに気軽に買える値段ではなく、また書店でそれをレジに持って行くことはかなり勇気のいることでしたから、結局、ラジオを通して入る情報が主流といって良かったと思います。

 ニッポン放送の「オールナイトニッポン」、文化放送の「セイ!ヤング」、そしてTBSの「パック・イン・ミュージック」の三つの番組が、互いをけん制し合って覇を争っていた時代です。

 なかでも特に有名なのは「オールナイト・ニッポン」で、私が深夜放送に一番ハマっていた69年~72年ころのパーソナリティを調べると、(月曜日)糸居五郎、(火曜日)斉藤安弘、(水曜日)高岡尞一郎、(木曜日)天井邦夫、(金曜日)今仁哲夫、(土曜日)高崎一郎亀渕昭信といった錚々たる面々です。
 とは言っても糸居五郎高崎一郎以外は筋金入りのファンでないと知る人は少ないのかもしれません。「斎藤アンコウ」や「今仁(いまに)のテッちゃん」は一世を風靡したタレント・アナウンサーでしたし、亀渕昭信と天井邦夫は2005年にホリエモンライブドアニッポン放送株の大量買い付けをした際、必死に抵抗した社長と副社長です。

 その「オールナイト・ニッポン」に対抗したのがTBSの「パック・イン・ミュージック」で(月曜日)小島一慶、(火曜日)愛川欽也、(水曜日)北山修、(木曜日)野沢那智白石冬美、(金曜日)山本コータロー、(土曜日)永六輔と言った布陣になります。

 さらに「オールナイト~」「パック~」の2強に割って入ったのが文化放送セイ!ヤング」で、(月曜日)土井まさる料理研究家土井勝とは別人)、(火曜日)はしだのりひこ、(水曜日)みのもんた、(木曜日)野末陳平、(金曜日)落合恵子、(土曜日)加藤泰三といった面々です。

 後に文化人と呼ばれるようになる人も大勢いますし、歌手やタレントとして名を残した人も少なくありません。そういったメンバーが、深夜の1時から3時までを仕切って若者と対峙していたのですから(*)面白くない訳がありません。
*2部構成で3時~5時までは別のパーソナリティが担当していたはずですが、そこまではつき合っていなかったのであまり記憶にない。

 
ただし3放送局とも全く同じ時間帯の放送ですし、毎晩つき合っていたら身が持ちませんから、自然と1~2の番組に限られていきます。私の場合それが金曜日の「パック・イン・ミュージック」、野沢那智白石冬美の通称「ナチ・チャコ・パック」あるいは「金パ」だったのです。
 野沢那智アラン・ドロンの声で有名な声優さんで劇団薔薇座の主催者、白石冬美さんは昨日お話した星明子です。

 

【若者文化は深夜ラジオから学んだ】

 「ナチチャコ」についてお話する前に、深夜放送の影響力ということについて少しふれておきます。
 それについてまとまったものを読んだことがないので個人的な感想しか言えないのですが、深夜のラジオ番組ということで「なんでもあり」の雰囲気があり、いろいろな実験的試みが平気で行われた感じがあります。
 アナウンサーがタレント並みの活動をして視聴率を稼ぐというやり方も、深夜放送から始まりました。

 亀渕昭信斉藤安弘の「カメ&アンコー」はソニーレコードから「水虫の唄」を出して20万枚を売り上げるヒットとなり、50歳を迎えた糸居五郎は「50時間マラソンDJ」などというものを敢行して、後の24時間テレビに先鞭をつけました。
 今仁哲夫と天井邦夫は日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画を立ててすぐに実行してしまいます。とにかく深夜のラジオということで、いくらでも実験的なことができたのです。

 グループサウンズ全盛の時代に「フォークソング」というものを掘り出して流行らせたのも深夜放送でした。
 特に「オールナイト・ニッポン」が見つけて強く推した「フォーク・クルセーダーズ」は、生ギターにウッドベース、タンバリン、ハーモニカ。曲は自作であること、音楽の合間あいまに笑いのあるトークを入れること等々、日本におけるフォークソングの基本的様式を決定づけ他グループでした。

 「ナチチャコパック」の後番組でときどき聞くことがあった「パック・イン・ミュージック」、金曜日第二部のパーソナリティ林美雄(なぜかミドリブタを自称していた)はTBSのアナウンサーでしたが新人発掘に才能と情熱を持っていて、デビュー前のタモリやおすぎとピーコを出演させ、日活ロマンポルノの芸術性に注目して「八月の濡れた砂」を推奨していたりもしました。その「八月の濡れた砂」の主題曲を歌った石川セリは、林に招かれて「パック~」に出演し、そのときたまたま同席した井上陽水と後に結婚します。 しかし何といっても林の一番の仕事はユーミンの発見です。

 私はミドリブタの紹介で、当時まだ高校生だった荒井由実の「ベルベット・イースター」を聞き、バックバンド「キャラメルママ」(細野晴臣松任谷正隆鈴木茂林立夫)の凄さとユーミンの天才ぶりに心底驚いたのを覚えています。
 貧乏学生のくせに半年の間にアルバム「ひこうき雲」を3枚も買って次々と聞いてもらいたい人にプレゼントして回ったのもそのころです。レコード店に買いに行くと「荒木ミミ(のちにプロレスラーになったアイドル歌手)ですか?」と訊かれた時代でした。

 私は田舎の人間でしたので、そういったものを通して都会の若者文化に触れて行ったのです。

 

 【わが青春の『ナチチャコパック』】

 「ナチチャコパック」は、しかしそうした文化の発信というのではなく、孤独な若者を言葉で結びつける集合の場という役割を負っていたように記憶しています。

 最後の30分間は内外の古典(「好色一代男」や「金瓶梅」)のラジオドラマでしたが、番組の大半は聴取者の手紙を読んで感想を言い合う形で終始し、私たちはそこで自由に――というか好き勝手に発言できたのです。いわば聴取者がつくる番組のハシリでした。

 一通り短い手紙が読まれ、合間あいまに音楽を聴いた後で、「お題のコーナー」(確かそう言ったと思う)が始まります。
 毎週、歌謡曲の題名から採った課題が出されていて、聴取者はそれに応える形で手紙を送ってくるのです。短い手紙が採用されやすい番組の中で、そこだけは一本一本がかなり長い文で、面白おかしく、時にはじっくりと考えさせられるものだったりして「ナチチャコパック」の一番のウリでした。

 当時は今ほど多様性のある時代ではなく、中高生あるいは大学生たちはかなり似通った生活をしていましたから他の人の話もよく分かります。平凡な日常の中でときに突飛な事件があり、間抜けな行いがあり、呆れた失敗がある、そうした、今で言う「あるある話」を聞きながら、自分の境遇だってまだまだ捨てたものじゃない、そんなふうに思ったりしたものです。

 高校3年生の秋、私は一度だけ「お題」に投稿し、読んでもらったことがあります。読まれた瞬間は布団の中で快哉を叫び、あとは心臓をパクパクさせて聞いていました。

 それなのに翌日、学校に行って自慢するようなこともありませんでした。受験が目の前だというのに勉強もしないでそんな長い文章を書いていた、それがバレるのが恥ずかしかった、そんなふうに考えられる初心な高校生だったのです。その時の「お題」は美川憲一の「お金をください」でした。

 Youtubeに「ナチチャコパック」終了に関するニュース映像がありましたので埋め込んでおきます。
 私の青春を支えてくれた、チャコちゃんの冥福を心よりお祈りします。

                         (この稿、終了)