娘のシーナが15年ぶりに出身高校の文化祭を覗いてきた。
驚いたことにパンデミックを越えてすべてが復活している。
あの謎のフラン研(フランス研究会)も生き残っていたが、
なぜドイツ研やイタリア研がなく。フラン研があるのだろう?
という話。(写真:フォトAC)
【娘のシーナ、一瞬の帰省をする】
7月7日が母の97歳の誕生日だったのですが、前日の土曜日が病院で診察を受ける日になっていたため、外出ついでに寿司屋によって“ハッピー・バースデー”を済ませてきました。その様子を写真に撮って家族LINEに載せたところ、夕方、娘のシーナからメッセージが入って、
「明日のお祖母ちゃんの誕生日にお祝いに行く。ついでに(出身校である)◯◯高校の文化祭も見てみたい」
とありました。シーナの二人の子のうち第2号が「絶賛甘えん坊」状態でなかなか離れることができないのが、たまたま義理の妹が来ていて、その人だと母親の代わりになるから子どもたちは置いて行く、その方が身軽でいい――ということで朝9時半着の電車で来て13時発で帰京するという忙しさでした(都知事選にもいかなくちゃいけないからね)。
その4時間あまりの間に母のところに行き、高校に回って文化祭を見物して、再び駅に向かって――は、けっこうな強行軍でしたが、一応、満足はできたみたいです。
【パンデミックを越えて高校文化祭は生き残った】
その文化祭の見学が終わって車に乗り込むやいなや、シーナは、
「いやあ、びっくりしたわ。卒業して15年になるのかな? それなのに何も変わっていない、鉄道研究会は相変わらず電車を走らせているし、縄跳び会も続いていた。私のいたモード研は今や20人もの大所帯で、部に昇格していた」
モード研というのは服をデザインして制作し、文化祭でファッション・ショーを開くのが一年間の流れで、シーナはそこに2年間在籍し、かなりの数の洋服をつくって披露したのです*1。
「それに、フラン研って覚えてる? それもあって笑っちゃった」
「フラン研」は文字に書いて見ればあらかた「フランス研究会」だと想像がつくのですが、耳から入ればほぼドイツ語で、オカルト研究会か怪物研究にしか聞こえません。おそらく初めてその名を聞いてフランス研究会だと教えられた時、シーナもびっくりして記憶に深く刻まれたのでしょう。私にとっても記憶に残りやすい名前でした。
その半ば冗談としか思えないような愛称のサークルが今もそのままのあだ名で維持されているおかしさ、あるいは足掛け4年に及ぶコロナ・パンデミックを経て、まったく文化祭を行わずに卒業して行った学年もあったはずなのに伝統が掘り起こされ、ほぼ完全に復活しているという不思議、そういったさまざまな意味を含めて、シーナにとっては「びっくりした」「笑っちゃう」体験だったみたいです。
私はそれに重ねて、「ドイツ研」も「イタリア研」も「イギリス研」もない中で、「フラン研」だけが残っていることに、何かとても深い思いが沸き上がってくるのを感じていました。
【その時代、ふらんすへ行きたしと思へども】
なぜ、ドイツ研究会もイタリア研究会もないのにフランス研究会だけがあるのかというと――もしかしたら当の「フラン研」会員ですら分かっていないのかもしれませんが、半世紀ほど前の高校生である私たちだとかろうじて理解できます。
フランスは特別な国なのです。かつて私たちが憧れたのはフランスであって、イギリスでもドイツでもイタリアでもありません。パリは「花の都」であり「芸術の都」であり「ファッションの都」であって、文化はフランスにしかないと思われるほどのありさまでした。
レオナール・フジタこと藤田嗣治がパリへ到着した大正2年(1913年)、パリにはピカソがいて、ロートレックがいて、エル・グレコやポール・セザンヌがいました。その前後にはシャガール、モディリアーニ、ユトリロ、モンドリアン、キスリング、マティス。マリー・ローランサンもいればその恋人のアポリネールもいました。そういえば藤田嗣治がパリに着いた年、ドーバー海峡に面したリゾート地の片隅で、ココ・シャネルが初めてのブティックを開業しています。
もっとも芸術を目指す者たちがすべてフランスへ行けたわけではなく、日本では資金を持たぬひとりの男がこんな詩を詠みます。
旅 上
萩 原 朔 太 郎
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
(以下、略)
【フランス映画・シャンソン・フレンチポップス】
フランスへのあこがれは戦後もかなり長いこと続き、1960年代~1970年代にかけてもフランス映画は繰り返し上映され、音楽もたくさん輸入されました。
映画なら今も名高い「シェルブールの雨傘」「太陽がいっぱい」「冒険者たち」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」「禁じられた遊び」「恐怖の報酬」「望郷」「天井棧敷の人々」「気狂いピエロ」「死刑台のエレベーター」「男と女」「自由を我等に」等々。
女優ならカトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・バルドー、ソフィー・マルソー。男優は今も美男として名高いアラン・ドロン、粋なジャン・ポール・ベルモント、ジャン・マレー。
音楽はシャンソン、あるいはフレンチ・ポップスと呼ばれる音楽ジャンルからは、アダモ、クロード・チアリ、ジョニー・アリディ、ミッシェル・ポルナレフ、エディット・ピアフ、フランソワーズ・アルディ、フランス・ギャル、ジェーン・バーキン、シルヴィ・バルタン。国籍がフランスではない人もいますが、有名な歌手の多くがフランスを活躍の場としました。
私が高校生くらいのころ(1970年前後)はラジオの洋楽ベスト10などを聞くと、必ず2~3曲はフランスまたはイタリアの曲が入っていたものです。現代はベスト10どころかベスト50くらいまで下がってもフランス語は聞くことができないのかもしれません。*2
【フランス留学が視野に入る人たちの研究会】
シーナの高校に「フラン研(フランス研究会)」があるのは、おそらくフランスに憧れた明治・大正時代の旧制高校の影響があります。将来フランスに留学することも視野に入れたエリートたちが、事前研究の場として組織したのでしょう。それが第二次世界大戦を越えて今日まで受け継がれている――。
現代の高校生からしたらなぜ「フランス研究」なのか分からなくなっているかもしれませんが、伝統の灯は消してはならないと、今も頑張っているのでしょうね。
そう言えば明後日7月14日はフランス革命記念日(1789年)です。その日付をそのまま題名にした映画「Quatorze Juillet(7月14日)」(ルネ・クレール監督 1933)は革命記念日の前夜から始まった若い男女の恋物語ですが、日本では「7月14日」と直訳しても「革命記念日」と訳してもピンと来ないので「巴里祭」という題名で上映されました。以来この日を「巴里祭」と呼ぶ人がいますが、日本だけの習慣だそうです。
*1:3年間もしくは2年半ではなく、2年というところにはちょっとした物語があるのですが、別の機会にお話しします。
*2:ちなみに、現在の洋楽ベスト10はどんなふうになっているのかと「オリコン 週間洋楽アルバムランキング」を見てみたら、1位から12位まで全員韓国人アーティスト。13位にようやくボン・ジョヴィ(古いなあ)、14位にアヴリル・ラヴィーン。テイラー・スウィフトにして18位では話なりません。ここ数年アメリカン・ポップスに入れ込んでいる私としては、開いた口が塞がらない感じです。