「虐待と躾を分けるもの」〜目黒女児虐待死事件より4

(ピーテル・パウルルーベンス「ソロモンの審判」)

               

【“虐待”――その説明が分からない】

 目黒の女児虐待死のような事件が起こるとメディアは「ストップ!“児童虐待”」の一色になってしまいます。もちろんそれ自体は悪いことではありません。

 しかし「大声で怒鳴ることも虐待」みたいな極端な話がはびこるのは、到底健全な状況とは思えません。

「どんな理由があっても、子どもをたたいたり、怒鳴ったりしてはいけません」

とか、

「感情的になって叱るのは虐待です」

とか、

「無視、拒否的な態度、罵声を浴びせる、言葉によるおどし、脅迫、これらはすべて虐待です」

とか、

「『うまく子育てができないと思い詰めて苦しい』『子どもの行動が気に入らない、可愛いと思えない』『「この子がいなかったら」と自分を追いつめてしまう』。これらはすべて虐待のサインです」

とか。

 一応ごもっともですが、これらの言葉がどれほど親を追い詰め、育児不安に陥れていることか。

 私はもうその年齢ではありませんが、子育て真っ最中の二十数年前、これらの言葉を繰り返し投げかけられたらほんとうに苦しかったと思います。

 だって例えばわが子が悪いことをした時、感情的にならずに済ませられますか?

 子どもが万引きをした、よその子をイジメた、もっと幼い時期だったら包丁を遊び道具にし始めた、急に車道に飛び出した――そうした時でも感情的にならず、落ち着いて叱ることができるとすれば、私はむしろその冷静さに怯えます。

 叩いてはいけないとなれば怒鳴るしかない、それもダメとなると無視とか仏頂面とかその程度のことしか思いつきません。

 昔だったら「先生に言いつけるよ」とか「おまわりさんに連れて行ってもらいますからね」とか、地方によっては「ナマハゲが来るよ」とか、今から考えるととんでもない職業差別ですが「サーカスに連れていかれてしまうよ」とか、そんなふうに脅したものですが、それもダメ。

 じゃあどうしたらよいのかと訊ねれば、

「どうしたら叱らず叩かず子どもに伝えられるかを考え続ける事が愛です」

とか、

「それがどんなに小さな子どもでも、きちんと言葉で説明することが大切です」

とか、

「何が悪かったのか、どうすればよかったのか、きちんと話せば必ず子どもは理解してくれます」

とか。

 けれど私は平凡な人間で、「どうしたら叱らず叩かず子どもに伝えられるか」考え続けることはしますが答えが出ません。答えが出なければ次の行動が起こせないのです。

 それに私は、3歳児4歳児に「きちんと言葉で説明する」その話法を知らない。私が話しても子どもはちっとも分かったふうではありません。それで余計に不安になります。自信も失います。

「子どもの要求には、それがどんなことであっても応えてあげましょう。そうすれば要求はそれ以上エスカレートすることはありません」

 たしかにその通りかもしれません。けれど私はつまらない人間なので、子どもの要求を次々とかなえててもなお、わがままな子を育てずに済む、そういった自信がないのです。

 せめて「ここまでやったら虐待だよ」「それ以上はダメです」というハードルを、そこそこ高い位置に示してくれないとやっていける気がしません。私はそんなに立派な人間ではないのですから。

――二十数年前の私だったら、きっとそう叫んでいたに違いありません。

【虐待と躾を分けるもの】

 虐待と躾の違いについて話を始めると、「そこに愛はあるんか?」と金融会社のCMみたいなことを言い始める人がいますが、“愛”などという目に見えないものを持ち出すとかえって難しくなります。

 虐待と躾を仕分けるのは実はそれほど難しいことではありません。二つの篩(ふるい)にかけるだけでいいのです。

 一つ目は「それは今、必要なことか?」という篩です。

 5歳の子どもはひらがなをきちんとかけなくてもいいですし、モデルになるための体重管理だってできる必要はありません。この段階ですでに目黒の事件は虐待です。

 しかし火のついたストーブに近づかないとか、母親が仕事をしている台所にはむやみに入らないとかいったことは、たとえ幼児だとしてもできなくてはなりません。できるだけ早いうちからできるよう躾けます。必要なことですから。

 第二は、「ちょっと頑張ればできることか」という篩です。

 ハイハイや伝い歩きの時期に、ストーブや台所の危険を言って聞かせても無理でしょう。

「今ね、お母さんは食事の用意をしているの。そういうときの台所ってとても危ないのよ。だって油がバシッて飛んでくるときがあるでしょ、熱いお湯の入ったお鍋を持って別のところに移そうとしている時もあれば包丁を握っている時もある。そんなときにあなたが突然足元にきて、『危ない! 踏んづけちゃう!』って慌てて避けたら、お鍋のお湯がかかっちゃったり包丁を落としちゃったりと、そんなことありそうだよね」

 などとハイハイの子どもに言いきかせている親がいたとしたら、それは滑稽です。

 言葉が通じない間は入り口に柵を設けるしかないのです。柵がつけられないなら料理の時間は赤ちゃんの方にベビーベッドに入っていてもらいます。

 しかし言葉が理解できるようになったら、そのときは言いきかせて柵を外すようにします。あんなもの、あったら不便ですから。

 オムツ外しも食事も、他人様への挨拶も、それらが躾として成り立つかどうかは、「ちょっと頑張ればできるかどうか」が目安です。

 とんでもなく頑張らなければできないことや頑張ってもできないことをやらせる(そしてできないと怒る)のは、“虐待の疑いあり”ということで避けた方がよいでしょう。できない間は台所の柵のように設備で対応するとか、親が代わりにやってやるとか、一緒にやるとか、そういった方策で対応します。

 できそうだなと思ったら、小出しに訓練を始めます。できるようになったら誉めます。それが躾です。

 学校では先生たちも言っています。

「できないことは叱ってはいけない。やらないことは叱らなくてはいけない」

と。

【私たちは人間だ】

 世の中には“天才”と呼べる多くの人がいます。それもかなりたくさんです。日本国内だけを見ても、総人口は1億2700万人ほどですから「1万人にひとり」という天才が1万2700人もいるのです。

 その中には“子育ての天才”といえる人もいっぱいいて、怒ることも叱ることもせず、子どもときちんと話し合い、良い子を育てることに成功しています。そうした成功例を本人が、あるいは取材した“子育ての専門家”たちが、本にしたり講演会で話したりするのです。

 彼らは自分たちができたからそのやり方には一般性があると信じていますが、どっこい彼らは天才なのです。その人たちにできたからと言って誰もができるとは限りません。

 いま流行りの言い方でいえば、

「あいつらハンパない。そんなん、できひんやん、普通」

といったところです。

 私たちは人間です。イライラするときもあれば意地悪になるときもあります。カッとなって我を忘れることも、無我夢中でしてはならないことをしてしまうことも。そしてそのたびに傷ついて、落ち込んで――仕方ないじゃないですか、人間だもの。(相田みつを風)

 しかしどうせカッとなって怒ったり怒鳴ったりして、後で反省して子どもに謝ったり優しくしたりするなら、この際、手順を逆にしてみたらどうでしょうか。

 結局自分を抑えられないのだから、怒鳴り散らすその日のために、日ごろから優しくしたり慈しんだり、必要以上に丁寧に対応しておくのです。落ち着いているとき、どうでもいいときにこそ、あふれるほどの愛の言葉をかぶせておきます。

 それだったら怒鳴った後の子どもも自分も、深く傷つかなくて済みます。笑って許せます。

 そうしたやり方を、私たちは愛情貯金と呼んでいます(2010/6/30 愛情貯金の話)。