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「ニュースを見ない子どもたに、どうニュースを見させるのか」~教え子をアホな受け子や強盗にしない方法④

 テレビや新聞のニュースは、学校の授業と同じように、
 一定のレベルを想定して、それ以上の人々に向けて発信される。
 したがって子どもたちを危険から遠ざけるためには、
 丁寧で粘り強い教育と躾が必要になる。すべて親にそれができるか?
 という話。(写真:フォトAC)

【ニュースを見ない子どもたち、ニュースをどう見させるのか】

 今日のテーマは「ニュースを見ない文化で育ってきた若者に、どうしたらニュースを見させることができるか」です。
 私はしばしば着地点の見えないまま文章を書き始め、書きながら結論を探すことがあります。しかし今日はもう何時間もかけながら、気に入った文章がさっぱり書けずに困っています。どうやら、そえはムリな注文なのかもしれないと思い始めているのです。
 
 少し話は横道にそれますが、昔、週刊誌には教養別格付けランキングみたいなものがありました。
 一番インテリっぽく見えるのが「朝日ジャーナル」、続いて「週刊新潮」「週刊文春」、第三ランクが「週刊ポスト」「週刊現代」、やや別筋で「週刊朝日」「サンデー毎日」、第4列に「週刊アサヒ芸能」「週刊大衆」といった具合です。昭和人は自ら自認するする教養ランクに即して、週刊誌を買い、筒状に丸めて持ち歩いたものです。ちなみに私は「朝日ジャーナル」しか持ち歩きませんでした。中身が理解できないので持ち歩くだけでしたが・・・。
 
 しかし新聞(一般紙)やテレビにはそうした区分けをしません。学校の授業がそうであるように、最初から大衆のどこかのレベルに照準を合わせ、その人たちの興味関心に訴え理解を促すように仕組まれています。そのレベルが意外と高い。
 
 政治・外交・経済・文化・スポーツ・・・それぞれはさほど高いハードルではないのですが、社会全体を一定のレベル以上で理解できるとなると、かなりの教養が必要になってきます。
 30分のニュース番組を集中して興味深く見ようとしたら、ウクライ戦争の今日までにある程度の知識があり、北朝鮮の委員長がどういう人か知っていて、中国の現状にも少しは語れるものがなければなりません。現在の猛暑が一部地域の事象ではなく全国的・世界的なものであること、ハワイでは大火事があったこと、大谷翔平が大リーグのホームラン王争いの先頭にいること、プリゴジンがどういう御仁か、そんなことも知らなければニュースを楽しむというわけにはいかないのです。つまり社会的知識の大きな底上げがないと、ニュースを日常的に見るという訳にはいかにないのです。
 
 小さなころから習慣づけのなかった子に、いきなり「テレビや新聞のニュースを見よう」と言ってもとてもではありませんができるような気がしてきません。やはりそれは丁寧に、時間をかけて育てられるべき力なのです。
 では誰が子どものそうした力をつけるのか、誰がじっくり見守り、毎日ニュースをチェックするよう躾けるのか――。それを親だというのは、なかなか難しいことのように私は思います。

【《すべての》という意味では、親には期待できない】

 躾は家庭の問題だから学校で扱うのではなく、親に返すべきだという人がいます。しかし私ほどの年齢になって、かつての教え子が40代から50代、つまり中高生の親になっている姿を見ると、
「とてもではないが躾を任せられる状況ではない、任されたら親も子も、社会も気の毒だ」
と言いたくなることも少なくありません。
 夏休みの宿題ひとつにしても、「結局、親が見なくちゃいけないのだから宿題なんか出すな」という家もあれば「宿題がなければ『どうやって何を勉強させればいいか』わからないじゃないですか」と捲し立てる親もいます。「躾は家庭で」といわれれば、「なんで躾まで親がやらなくちゃいけんのよ」と怒り出すか、「躾って、どうやればいいんですか?」と困惑する家庭です。
 
 その一つひとつに個別に対応し、家で躾を行うことの重要さを教え、躾方を教える手間を考えれば、子どもたちを一か所に集めてプロが躾ける方が確実に効果的です。教師の疲弊や働き方改革の問題はあるにしても、社会全体の利益として躾は学校がした方がいいと感じるのはそのためです。
 
 ニュースを見ない子どもたちに、ニュースを見る習慣の糸口を与える仕事も、「家庭でやってください」ではすまない問題です。教師の疲弊の問題があり、教師不足の現状もあります。働き方改革の観点からも、何もかも学校に押し付けるのは間違っているとしても、諸外国ではキリスト教会やイスラム指導者、党委員長、あるいは政治局が担っている道徳や倫理・躾、あるいは生活の習慣づけなどを、素人の親たちに任せるのは、やはり酷だと思うのです。