カイト・カフェ

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「日本の上にアメリカは乗らない」~囁く天使と怒れる菩薩②

 守護天使のあの冷ややかな感じ、
 欧米諸国にはびこる児童虐待や子殺しを、
 私たちはどう理解したらいいのだろう?
 翻って我が国では、子どもたちにどう対応してきたのか――。
という話。(写真:フォトAC)

守護天使は警告する】

 若いころキリスト教について勉強しようと思って聖書を読み始めたら、まあやりきれない話ばかりで、一組の家族とすべての動物をひとつがいずつ船に積んで、あとは全部殺してしまうノアの箱舟の物語だとか、最も敬虔な信徒を悪魔の手にゆだね、全財産と10人の子ども全員の命を奪わせたうえに、本人も重い皮膚病に苦しむよう仕向けた「ヨブ記」など、砂漠に生まれた宗教はここまで苛酷でなくてはならないのかと、何べんも学習を挫折しかかる感じがありました。
 悪魔にそそのかされてエデンの園で智恵の実を食べたことが、そんなに悪いことなのか、延べ何百億人もの人間が何十世紀もかかって贖おうとしても、決して許されないほどの罪なのかと、私にはまったく理解できないことです。

 昨日Wikipediaから仕入れたばかりの新たな知識、

  1. 守護天使は、人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にも、それを止めさせることはしない。
  2.  人は天使に語りかけることが可能で、天使たちはその必要性、希望、欲求によって人間に語りかけ、啓蒙する――しかし主導権はあくまでも守護天使の手の中にあり、人間への語りかけはしてもしなくてもいい。

も、守護天使という優しい名前にもかかわらず、私にはキリスト教の人間に関する冷淡さを示しているようにしか思えないのです。天使は人間を守ると見せて、しかし《いつでも突き放す》といった警告を怠りません。

【子どもがないがしろにされる国、子どもが殺される国】

 “人間はアダムとイブ以来の罪を背負っている”(原罪)という考え方は、おそらくキリスト教国の津々浦々まで浸透していて、人間観とか子ども観とか、あるいは教育観に深く影響を与えています。
 
 例えば19世紀や20世紀初頭の欧米の学校を描いた映画などを見ますと、教室の壁には必ずムチが掛かっていて、ときに教師はヤンチャな男の子たちを黒板の前に向こう向きに立たせ、ズボンを下げて尻をむき出しにすると、順番にムチで叩いて行くといった場面が映し出されたりします。 “教鞭を取る”が教育を行うことを意味するのはそのためです。
 寄宿舎や孤児院における躾は苛酷ですし、家庭にあっても、男の子は自慰をしないように寝る前に両手を縛るといったやり方は、私たちには理解できないものです。
 どうやら欧米人は人間、特に子どもは、放っておくと悪魔になってしまうと本気で思っていたようで、特にアメリカでは児童虐待や誘拐・子殺しが今も多いのは、そのためなのかもしれません。
 もはや人権思想と法律でタガを締めあげないと、子どもの命が救えないのです。常に監視し、最大の罰をもって対応しないと、子どもは次々と殺されてしまいます。それはあまりにも我が国とかけ離れた姿です。

【日本の上にアメリカは乗らない】

 日本は子どもを甘やかす文化をもった国です。
 「七歳までは神のうち」という言葉があって、7歳まではいつ神のもとに戻されても不思議がないと考えられましたから、大事に、大事に育てられました。つい先週の「チコちゃんに叱られる」でも「通りゃんせ」の唄について、「行きはよいよい」なのに「帰りは怖い」のは、「この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります」と神の加護に感謝し、神の手を解いて、人の子として育て始めるから怖いのだと説明されていました。

 とにかく七五三が終わるまでは、神からの借り物として、育てるのが当たり前だったのです。
 渡辺崋山の描いた寺子屋の風景を欧米の学校と対比すると、日本の子どもがどれほど甘やかされてきたかは、自ずと分かるというものです。

 だから日本の子どもも厳しくしなくてはいけない、日本は欧米に後れをとっている、などというつもりはありません。
 子どもを甘やかす文化をもったこの国に、マッチョでタフなアメリカの人権思想や文化をそのまま持ち込むと、重大な齟齬を来したり大きな問題を引き起こしたりするかもしれないということです。
(この稿、続く)