カイト・カフェ

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「保育士や教師は、自分たちの子をそんなふうに育ててはいない」~子どもの心にどんな小さな傷も与えてはいけない③

 人権を守ることへの厳しすぎるほどの姿勢は欧米に由来する。
 しかしその欧米は、決して弱者に甘い国々ではない。
 その欧米の厳しい基準をもって日本に被せれば、
 日本の子どもは大人社会を生きていけない。
 という話。(写真:フォトAC)

 

【高い人権意識はどこからくるのか】 

 静岡県裾野市の私立保育園において園児虐待を通報した内部告発者の高い人権意識、それを支える人権思想はどこから来たものか――。これは基本的に英仏を中心とするヨーロッパで生まれ、合衆国で育ったものだと私は考えています。虐待かどうかの基準は合衆国にあるのです。
 
 アメリカを参考に子どもの人権や安全安心を考えようとする動きは、例えば昨年から今年にかけて日本国内で立て続けに起こったスクールバス置き去り事件の際にも見られました。
 引き合いにされたのはアメリカのスクールバスの制度やシステムで、車体に取り付けられた安全装置や運転手が繰り返し車内を確認する様子は、あちこちのテレビ局で取り上げられました。しかしそのアメリカでは、昨年までの32年間に約1000人の子どもが高温の車内に取り残されて亡くなっているのです(2022.09.25 産経新聞)。
 もちろん走っているスクールバスの数がまったく違いますから比較になりませんが、アメリカ社会が置き去り防止に熱心なのは、決して子どもに優しい国だからではなく、法とシステムによってしか子どもを守ることができなくなっているからなのです。
 
 同様に、アメリカ社会は子どもの人権にも非常に厳しく、家で子どもだけで留守番させることも公共交通機関に子どもだけで乗せることも、すべて虐待に当たるといいます。
 在ナッシュビル日本総領事館のサイトには、日本人が児童虐待によって不用意に逮捕されないよう、いくつかの事例が掲載されています(米国での生活上の注意事項)。

  • 某日、小学生の子供を連れた邦人女性が近くのスーパーに買い物に行った。子供が、商品を買ってほしいと言ってねだるので、母親が子供の頭を小突いて叱った。⇒ 他の買い物客が目撃して警察に通報したため、児童虐待容疑で母親が州政府の児童保護局(テネシー州ではDCS:Department of Children’s Serviceと呼ばれる)の取調べを受けた。
  • 某日、乳児をお風呂に入れている写真を近所のドラッグストアで現像に出した。⇒ ドラッグストアが児童に対する虐待容疑で児童保護局に通報し、児童虐待性的虐待)容疑で調査活動が行われた。
  •  某日、小学生の男子が悪ふざけをしたので父親が注意したら、少年は近くの木に登ったので、父親が少年に対して下りてくるように怒鳴った。⇒ 近所の住民が警察に通報し、父親が児童虐待心理的威圧)容疑で勾留された。
  •  某日、母親が7歳の子供を連れて大型スーパーに買い物に行き、車に戻った際にその店に忘れ物をしたことに気づき、子供を車内に残したまま車から離れた。⇒ 通行人女性が警察に通報し、児童放置容疑で母親が警察の取調べを受けたほか、子供が1ヶ月間、指定の里親に預けられ、親との面会も制限された。 

 アメリカ合衆国はここまで子どもの人権や安全に気を配っている――そうとも言えますが別な面から見ると、ここまでしなければ子どもの命を守れない国だとも言えます。
 少し古い記録ですが2014年の保健省の統計で、合衆国国内で虐待を受けたと認定された子どもは年間70万2000人、虐待死は約1500人にも及ぶのです。一日平均4人以上の子どもが保護者による虐待で亡くなっています。
 
 アメリカはいわば肉食系のマッチョな国です。
 1年間に1万6000件の殺人事件が起こり10万件のレイプが発生する。26万8000件の強盗事件と82万件もの銃器などを用いた加重暴行――こんな荒っぽい国では人権という概念を繰り返し振りかざし、重い刑罰をもって対処しなければ次々と弱者が殺されてしまうのです。
 しかし日本は違う。

【子どもは三歳になるまでは神様からの預かりもの】

 児童虐待についていえば、そもそも我が国は子どもに対して甘い国なのです。
 「三歳までは神のうち」とか言って、子どもは3歳になるまでは神様からの預かりものなのです。だから大切にし、三つ、五つ、七つと成長を細かく刻んでお祝いします。
 欧米の子どもの多くは生まれるとすぐに別室のベビーベッドに寝かされてしまいますが、日本の場合、住宅事情もあるでしょうが、いつまでも添い寝が続いたり、親子同室だったりします。
 私の娘のシーナも小学校4年生になっても家族の寝室で寝ていて、妻から、
「シーナはいつまで親のそばで寝るの?」
とからかわれると、
「目標は高校生かなぁ」
などと呑気な受けごたえをしていたものです。

 小学生の保護者に、
「どんなお子さんに育ってほしいですか」
と訊くと、十中八九は、
「小学生のあいだくらいは自由にのびのびと」
と強さを求めません。

 そんな“子どもに甘く優しい日本の文化”に、欧米流の重く強力な人権思想を被せるととんでもないことになります。それが今の保育・教育の現場で、静岡県裾野市私立さくら保育園で起こった事件は、そうした日米二種類の基準の狭間で起こった、小さな事故だったと私は考えるのです。

【保育士や教師は、自分たちの子をそんなふうに育ててはいない】

 子どもには針の先で突いた程度の痛みも味合わせたくない、できるだけ小さな苦労で大きな成果を掴ませたい――そういった願いは世の中にまん延しています。親にもメディアにも一般の人々にも。
 小中学生についていえば、
「重いランドセルは可哀そう」
「宿題は子どもにとっても親にとっても負担」
「嫌いなものでも量の上でも強制される給食は可哀そう」
「おしゃべりのできない給食は可哀そう」
「いやな種目をやらされる体育はいかがなものか」
スクール水着は体の線が見えてイヤ」
「教室で着替えるなんてもってのほか」
「自由に好きな髪型や服装をさせてあげたい」
「底辺校への進学なんてもってのほか」
 ・・・・・・・・・・・・
 それでは給食を止めて毎日弁当をも持たせるかとか、置き勉のためのロッカーや大きな更衣室建設のための増税に応じるかというと、そうでもありません。
 さらにその子が大人になると、突然、
「最近の若者は怒られ慣れていないので、ちょっと叱るとすぐに会社を辞めてしまう」
と突き放す。それって卑怯じゃありませんか?
 
 子どもの世界はどんどん甘くなるのに大人社会はそこまで優しくなっていない、保育士や教師たちはそのことを知っていますから、我が子を育てるのに園や学校の真似をしたりしません。行っているのはけっこう古くからある養育・教育法で、これは私たちの公然たる秘密です。
(この稿、終了)

《参考》

kite-cafe.hatenablog.com