カイト・カフェ

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「科学は案外進歩しない」〜2030年の世界 3

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 人工知能が人間を支配する、あるいはロボットが人間を裏切るという物語は古くからあるものです。
 有名なところで言えば、「ターミネーター」(1984)と「マトリックス」(1999)はともにコンピュータの世界支配から人類を救おうというものでしたし、「2001年宇宙の旅」(1968)は宇宙船内の飛行士たちをコンピュータが一人ひとり殺していく物語でした。
 「エクス・マキナ」(2015)でも主人公の女性ロボットは自らの作製者を殺し、協力的であった人間の男性を孤島に置き去りにして、ひとり微笑んで都会の雑踏に消えていきます。
 また、「イーグルアイ」(2008)では処分を命じられたコンピュータが保身のため、人間をコントロールして政府を転覆しようとさえします。
 「鉄腕アトム」の国である日本とは違って、欧米の人工知能やロボットに対する見方は、かなり冷淡なところがあります。
 そういえばそもそも、「ロボット」という言葉を最初に生み出したチェコカレル・チャペックの戯曲「R.U.R」自体が、ロボットの反乱を描いたものでした。

 「シンギュラリティ」の結果コンピュータが知的職業を一斉に奪い、ロボットが生産的な仕事を片っぱし担うようになったら、人間は何をしたらいいのでしょう? そのとき人間は地球上の余計者、環境を蝕み続ける寄生虫のような存在になってしまうのではないか、そんな寄生虫人工知能はどう捉えるのか、それもSFのありふれたテーマのひとつです。

【科学は案外進歩しない】

 しかし実のところ、私はそれほど心配していないのです。「シンギュラリティ」が表現するような人工知能が圧倒的に優位な時代は、少なくともここ200年〜300年のあいだは来ないような気がするからです。科学は案外進歩しません。

  考えてもみてください。鉄腕アトムの誕生日は2003年4月7日なのですよ。
 マンガ「鉄腕アトム」が雑誌に登場した1952年には、半世紀の後、胸に原子力モーターを入れた10万馬力の人型ロボットが、空中を自由自在に飛び回ると考えられたのです。

 1948年に書かれたオーウェルの「1984年」では、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンで監視されていますが、少なくともその年には双方向テレビジョンというものは存在しませんでした。
 たった36年先が見通せないのです。

 また、1968年に制作された「2001年宇宙の旅」では、主人公のひとりが背広のまま宇宙船に乗り込みます。1968年と言えばアポロ計画で月に人間が降り立つ前年で、宇宙科学とか宇宙計画といったものは十分に理解されていたはずです。それなのに“三十数年後、私たちは背広でパンアメリカン航空(*)の宇宙船に乗って、宇宙旅行をする時代を迎えているはずだ”と人々は考えたのです。
*1991年に破産して消滅したアメリカの航空会社

 今や私たちはそんな宇宙旅行をする日は永遠に来ないのかもしれないと思い始めています。おそらくそれが正しいのでしょう。そんな自明のことが、50年前の人たちにはわかりませんでした。

 極めつけは世界の有識者100名で構成される民間のシンクタンク「ローマクラブ」が1972年に発表した「成長の限界」というレポートで、その中で学者たちは“今後20年で原油は枯渇する”という結論を出しました。それが石油危機の原因のひとつとなったわけですが、あれから半世紀近く、いまも石油が枯れそうだといった話は全く出てきません(しばしばだぶつきますが)。

 旧社会主義国マルクスの科学的未来予測に従ったため、何千万人もの人間を死なせてしまいました。

 私は「ノストラダムスの大予言」が流行したころ、類似の本を山ほど買い込んで読みましたが、その中には科学者の書いた未来予想もあって、しかしガンの特効薬も発明されなければ月への団体旅行も実施されませんでした。常温核融合や高温超電導もすでに実用化されているはずなのに、いまだウワサすら聞きません。

【近未来は今と大差はない】

 科学の未来予測などといったものは、その程度のものなのです。
 子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就くとか今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高いとか、2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達するとかいったことは全くの眉つば。

 最も自動化に向いている製造・土木・建設といった仕事は現在外国人労働者も考えなければいけないほどの人手不足で、私たちがロボットにはじき出されるような状況にはありません。 「お・も・て・な・し」をウリに2020年までのに外国人観光客をいまの二倍の4000万人に増やそうという時期に、“どこに行ってもPepper”みたいな店舗経営を考える起業家もいないでしょう。  経験から言えば多少の変化はあっても、人々はいまとそう変わりない生活を将来も送っているはずです。少なくとも2030年、2050年くらいまでは全く問題ありません。それが常識的な判断です。
 それにもかかわらず、脅しにも似た未来予想図で危機を煽るのはなぜなのでしょう。

【学習指導要領のねじれ】

 さらに言えば、一方で2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達するという指摘もあると言って人工知能が自動的に技術革新を行う時代を予告しながら、
“だから小学生のうちからプログラミングを学んでおきましょう”
というのが私にはわかりません。
 古典芸能ではないのですから人間がプログラミングをしなくなる日に向けて今から学んでおくというのは、少なくとも学校教育のやることではないと思うのです。

 また“爆発的技術開発”の中にはとうぜん自動翻訳も入ってきますが、すでに紹介した通り、現段階でもスマホ・アプリケーション「Voice Tra」などはかなり優秀で、これさえあれば観光旅行くらいなら全く困らないはずです。それが2030年どころか、おそらく東京オリンピックの2020年には一応の完成の域に達します。
 さらに10年もたてば、いちいちボタンを押さずとも語り手の反応を察知して、自動的に翻訳を始める蝶ネクタイ型翻訳機くらいは出て来て不思議がありません。
 それなのに、
“だから小学生のうちから英語に親しんでおきましょう”
というのがやはり分からない。

 どうしてこのようなねじれが生まれたのでしょう?

(この稿、続く)