カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「素人に予見できるものは実現が遅れ、予想しないものはカエル跳びする」~令和はこうなる(最終)

 ほんとうにやりきれない交通事故が続いている
 しかしそれは必ず克服されるはずだ
 場合によって 科学の進歩は驚くほど遅いが
 これまで思いもしなかったやりかたで
 一気に時代を進めることもある
 怖れず 令和の時代を生きて行こう

というお話

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【重大事故が相次いでいる】

「4人が意識不明」という第一報を聞いた段階で、すでに声を上げて泣きそうになりました。一昨日の滋賀の交通事故の話です。
 歳を取ると涙もろくなるというのは事実です。なぜかわかりませんが。

 私の孫のハーヴはまもなく4歳になりますが、1歳から4歳というのは人生の中でも最も可愛い時期で、まだ会話も十分ままならない2歳児が、4人も意識なく路上に倒れているのを想像したら、不覚にも涙が零れ落ちたのです。
 子を亡くされた親御さんや孫を亡くされた祖父母のことを思い遣ったのは、その後のことです。

 この記事を書いている段階では、信号が青(右折も可)の状態で、対向車があったにも関わらず無理に右折した乗用車の方により大きな過失があったかのように報じられていますが、実際に子どもをはねたのは直進車の方で、そう考えるとこちらこそ救いがありません。
 亡くなった幼児、重軽症を負った子どもたち及び保育士さんたちはもちろん、交通事故は関係したすべての人々にとって不幸です。

 先月は池袋で87歳の男性による重大事故があって、一組の母子が亡くなっています。加害の高齢ドライバーは東大卒の元通産省理系エリートで、知る人ぞ知る人物だそうです。しかしそうしたキャリアも今回の事故ですべて帳消しとなり、場合によっては余生を交通刑務所で過ごすことになります。年齢が年齢だけに入ったとしても、きちんと罪の償いを全うすることすら難しいのかもしれません。

 わが家でも、妻は私のことを信用していませんから、今から、
後期高齢者になる前に、運転免許は返納しましょうね」
などと説得にかかっています。
 しかし私に、その気はまったくありません。
 
 

【私は90歳でも運転しているだろう】

 理由は三つあります。
 一つ目は私が運転が好きだということ。しかしこれは大した理由ではありません。

 二番目は田舎人間ですので、何をするにも自家用車がなければ大変だということ。
 一番近いスーパーマーケットまで、現在の私でも歩いて30分以上。コンビニは比較的近くにありますがそれでも10分はかかります。
 距離だけで言えば内科医も床屋も近い場所にあります。しかし前者はヤブで後者は野暮ですので本当は行きたくありません。歯科医と薬局はバスを使わないと行けません。
 畑をやっているのですが、資材を購入するためのホームセンターは徒歩40分。とてもではありませんが肥料を担いで帰れる距離ではありません。
 そのつどタクシーを使うというほどの経済的余裕もないのです。だから自家用車は手放したくない。

 しかし私が後期高齢者になっても免許証を手放さないだろうと考える最大の理由は、そのころまでには技術的、制度的に、高齢者が運転をしても大丈夫な運転環境になっているのではないかと思うからです。
 10年経ったら池袋の事故はない、20年経ったら滋賀の事故もない、そんなふうに考えるのです。
 
 

【近未来の車】

 池袋の事故について言えば、現在でも最新型の車なら防げたのではないかと思います。最新プリウスの「セーフティ・サポートカーS<ワイド>」はカタログによると、「被害軽減(自動)ブレーキ(対歩行者)、ペダル踏み間違い時加速抑制装置、車線逸脱警報、先進ライト」搭載だそうですから、きちんと作動していれば事故は防げたことになります。
 現在は「道路状況、車両状態、天候状態およびドライバーの操作状態等によっては、作動しない場合があります」との添え書き付きですが、10年後はさらに性能を高めているはずです。

 また滋賀の事故について言えば、右折して衝突した車の運転者ではなく、車両本体が直進対向車を認識してブレーキをかければ、あるいは直進して来て右折車をよけ切れず、結局跳ね飛ばされて園児の列に突っ込んだ軽自動車の方が、自身の能力で巧みに右折車をかわし、かわしきれない場合も瞬時にハンドルを右に戻して元の車線に戻っていたらあのような重大な事故にならなかったはずです。
 
 これだけ話題になっている問題です。さらに今後高齢者が増え続けることを考えると需要はたっぷりあるのですから、20年もあればどちらかの機能は完成していることでしょう。

 あとは制度的に「後期高齢者が引き続き免許を更新したい場合は『ハイテクカー限定免許』に限る」といったふうにすればいいのです。その車は制限速度を検知してそれ以上1㎞/hも余計に速く走れないでしょうが、私も我慢しましょう。制限時速ぴったしでトコトコ走る私のあとに続く車にも、我慢してもらわなくてはなりません。それが高齢ドライバーによる無用な死者を生み出さないための社会的コストなのですから。
 
 

【素人に予見できるものは実現が遅れる】

「素人に予見できるものは実現が遅れ、予想しないものはリープフロッグ(カエル跳び)する」
 それが長く生きてきた私の実感です。

 例えばジュール・ベルヌの「月世界旅行」で人類が初めて月に到達したのは186X年ですが、実際に人間が月に降り立ったのはちょうど百年後の1969年でした。
 映画「2001年宇宙の旅」では、冒頭の場面で主人公のひとりが背広で宇宙船に乗り込み、宇宙ステーションに向かいます。しかし2019年の今日も、宇宙旅行はそんなに簡単なものではありません。
 1970年ごろ、がんの根本治療は21世紀に入って間もなく完成すると考えられていました。しかし世界中の研究者が真剣に取り組んでいるのにも関わらず、そんなものはいまだに存在しません。

 かくありたいと思う私たち願いが、現実の困難をすべて無視して、夢を手前に引き寄せてしまうのかもしれません。
 したがって令和の時代も、表面的な世界の風景は今のままほとんど変わらず続いていくものと思われます。
 
 

【技術はカエル跳びをする】

 ところが科学技術は、私たち素人の予測を突然断ち切って、まったく異なる場所に連れて行ってしまうことがあります。

 技術や経済が段階的な発展過程を跳び越えて一気に進歩してしまう現象――例えば新興国で固定電話の段階が飛ばされスマートフォンがいきなり普及するようなことを「リープフロッグ(カエル跳び)型発展」と言いますが、それと似たことが最先端の場で起こるのです。
 例えば音楽のネット配信がそれです。

 日本でソニーや日立からCDプレーヤーが発売されたのが1982年のことでした。針でレコード盤を引っ掻くアナログレコードプレーヤーからの転換は画期的で、以前のようにホコリを気にしなくていいだけも、ずいぶんとありがたい装置でした。
 ただし傷がついたり汚れたりしないように気を遣うのは同じで、いつかそんなことも気にせずに持ち運べる媒体が現れるはずだと思っていたら、ほどなくMD(ミニディスク)が発売され私の予想は当たります。
 あとは技術革新でひたすら情報量を増やしていくだけです。これ以上小型化するとかえって扱いにくいのだから・・・と思っていたら、なんとネット配信によって物理的メディア自体がなくなってしまったのです。これは全く予想できないことでした。

 私だけが愚かだったわけでないことは、2000年代くらいのSF映画を確認してみるといいと思います。きっと誰かがMDのような媒体を口に咥えて、無重力の宇宙船内を泳いでいるはずですから。

 メールやSNSといったものも変種のリープフロッグでした。つい20年ほど前の学校の、最大の問題のひとつは「子どもの文字離れ」だったのです。
 手書きではないにしろ、朝から晩まで子どもたちが文字をいじる時代が来るとはまったく考えもしませんでした。
 
 

【令和の科学はこうなる】

 私は一面、非常に楽天的な科学信奉者です。
 科学はときに災厄を生み出すこともありますが、その災厄を解決するのも科学だと思っています。

 そうやって科学が支えるのは人間の生活そのものであって、科学が科学自身のために世界を塗り替えることはありません。その意味で令和の間くらいは、私たちを取り巻く環境は大きく変わったりしません。

 コンピュータが人間の英知を越え、コンピュータ自身がコンピュータをプログラムすると言われている「シンギュラリティ」は2045年が予定されています。順調に行けば令和の間の出来事ですが、それとてきっとたいしたことはない――。
 そのときおそらく、人間はたくさんの「人間にしかできないこと」を生み出しているに違いないからです。