カイト・カフェ

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「ABC=当たり前のことを、ばかみたいに、ちゃんとやる」〜2030年の世界 4

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中央教育審議会

 中央教育審議会(中教審)文科省の正式な諮問機関で、学校教育および生涯教育の全般について調査・審議し、報告するものです。
 日本の教育行政全般にわたって審議する場所なので案件も多く、配布資料も膨大になりがちで重厚長大な印象があります。ここに何かを任せると、すぐに調査だの研究だといった話になって時間がかかります。重々しいぶん、軽快さに欠けるのです。

 したがって教育改革を早急に進めたい総理大臣の中には中教審の審議を待つことができず、直属の諮問機関をおいてそこでの提案を政策に反映しようという人たちも出てきます。臨時教育審議会(中曽根内閣)、教育改革国民会議小渕内閣森内閣)、教育再生会議安倍内閣)といったものがそれですが、安定的に存在しているのは中教審だけです。

 中央教育審議会はさまざまな主題に対して答申を出しますが、その中でも私たちにとって特に重要なのが、
『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)』
 これを基礎に学習指導要領がつくられ、学校の教育内容が規定されるからです。

【意図は隠される】

 学習指導要領がつくられるまでを文書の流れだけで見ると、
 中教審資料→答申→指導要領
という順になりますが、この流れは先に進めば進むほど総合的・理念的・汎用的なものとなります。簡単に言うと“あたりさわりのないもの”になっていくわけです。

 審議会資料で、
 子供たちが将来就くことになる職業の在り方についても、技術革新等の影響により大きく変化することになると予測されている。子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就くとの予測や、今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高いなどの予測がある。また、2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達するという指摘もある。
とあった部分は「答申」では次のようになります。
 とりわけ最近では、第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来が、社会や生活を大きく変えていくとの予測がなされている。“人工知能の急速な進化が、人間の職業を奪うのではないか”“今学校で教えていることは時代が変化したら通用しなくなるのではないか”といった不安の声もあり、それを裏付けるような未来予測も多く発表されている。
(第1部 学習指導要領等改訂の基本的な方向性 第2章「2030年の社会と子供たちの未来」)

 それがさらに指導要領になると
 こうした変化の一つとして,人工知能(AI)の飛躍的な進化を挙げることができる。人工知能が自ら知識を概念的に理解し,思考し始めているとも言われ,雇用の在り方や学校において獲得する知識の意味にも大きな変化をもたらすのではないかとの予測も示されている。このことは同時に,人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても,その思考の目的を与えたり,目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるということの再認識につながっている。
(中学校学習指導要領解説(総則編)第1章 総説1 改訂の経緯及び基本方針 . (1) 改訂の経緯)

 なんだかとんでもなく前向きな話になってしまいました。

 ちなみに評論家を含む教育の専門家たちは、これら政府発表のいずれの文書からも自由に引用することができます。いわば政府お墨付きの文で、自分の論を好き勝手に補強できるわけです。世の中、難しくなるわけです。

【論理的ねじれの原因】

 「シンギュラリティ」のために将来はプログラマなどという仕事はなくなってしまうといいながら “小学生のうちからプログラミングを学んでおきましょう”といったり、とんでもない技術革新が始まる(つまり優秀な同時翻訳音声装置がすぐにもできたりする)と予言しながらも“小学生のうちから英語に親しんでおきましょう”となるのは、こうした中教審のさまざまな場面から取ってきた情報をつぎはぎするからなのです。それぞれの文脈や対象が違います。

 上に引用した「シンギュラリティ」に関する記述を含む“資料”の続きの文は以下のようなものです。
 予測できない未来に対応するためには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが重要である。
 そのためには、教育を通じて、解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解ける力を育むだけでは不十分である。これからの子供たちには、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくことが求められる。

 “解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解ける力を育むだけでは不十分”というのはまさにエリートに語られた部分です。だってテスト問題を効率的に解ける子って、どの高校にもどこの大学へも自由に入れる秀才・英才ですよね、そういう子は「社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し〜」なのです。

 「シンギュラリティ」の後の人工知能を制御する人たちですから、半端な能力では困ります。小学生のうちからプログラミングに親しんでいてもらわなくてはなりません。

 彼らはまた、錯綜する東アジアの国々や世界の大国の官僚・政治家たちと丁々発止のやり取りをしてもらわなくてはならないひとたちです。習近平の側近がああ言ってきたら瞬時にこう返そうといったことが予め分かっていなければなりません。プーチンの子分やトランプの手下と渡り合うのに、自動翻訳機を使って話すといった悠長なことはしていられないのです。そんなおっとりとしたことは下々の者に任せておけばいい、国際政治や国際経済の中では瞬時に怒りを表現し、自身を説明し、時にはゴマをすり、握手しながら足蹴りもできるような卓越した英語力が必要なのです。だからエリートには小学生のころから英語に親しんでもらわなくてはならない。
 それが「中教審『資料』」の段階で思い描かれている次世代の教育なのです。

 しかしそんなことは学習指導要領の段階になると書けない。
 学習指導要領が果たす役割の一つは,公の性質を有する学校における教育水準を全国的に確保することである(平成29年公示 中学校学習指導要領 前文)
からです。エリートをどう育てるかといった内容は指導要領の趣旨に添いません。

【世界はそう簡単に変わらない=庶民の近未来】

 私が思う庶民の近未来に一番近い姿は、映画「ブレードランナー」(1982)に描かれた風景です。

 舞台となる巨大都市の超高層ビルの間を、スピナーと呼ばれる普通車サイズの飛行車両が縦横に飛び交っています。警察車両も垂直上昇・垂直下降を繰り返しては街をパトロールしている。さらにその後ろを、飛行船のような宣伝カーがゆっくりと移動していく――。

 いかにも近未来的な雰囲気ですが、やがて映し出されるビルの巨大なスクリーンには日本の胃腸薬「強力わかもと」を宣伝する芸者の姿が映し出されます。よく見ると遠くにはコカ・コーラパンアメリカン航空のネオンサインも見えます。
 降りしきる雨の下で人々は傘をさして歩いています。都市の上空だけ雨雲を寄せ付けないとか、街全体をドームで囲うといったことはしなかったみたいです。雨足が強まってきたというのに、自転車も数多く走っています。
 主人公はそんな街で、屋台に潜り込み、ウドンを注文するのです。

 実は「ブレードランナー」の設定は2019年(来年!)のロサンゼルスなのです。映画がつくられた時から40年近く経っているというのに、「2001年宇宙の旅」と同じようにパンアメリカン航空の倒産を予想できなかったこととスピナーを除けば、現在のロサンゼルスの日本人街と大差ない風景です(行ったことはありませんが)。
 そしておそらく100年たっても、似たようなものだと私は思うのです。

 江戸時代にあったうどん屋の屋台が21世紀もあるように、22世紀になってもそれはなくなりません。なくす理由がないからです。人々は軽い胃腸炎だったら「強力わかもと」で対処し、回復したらコカ・コーラも飲み続けるかもしれません。
 街の光景は多少変わるかもしれませんが、一歩郊外に出れば田んぼも畑も残っているはずです。すべての農業生産を工場に移す理由はありません。

 どんなに便利になったって人間はキャンプや登山をやめようとはしません。スキーヤーは二枚のスキー板で雪山を滑り、海水浴場では水着姿で、手足になにもつけず泳ぐ人の姿が絶えません。
 どんなに将棋ソフトが強くなっても、藤井聡太君は30年後もプロ棋士として活躍しているはずです。Eスポーツがどれほど盛んになっても、人々は相撲やプロレスを夢中になってみているはずです。
 学校では相変わらず子どもたちがギャーギャー言いながら走り回り、授業中は旧式の鉛筆を使って紙の上で勉強をしています。100年後もです。
 だって鉛筆と紙は便利なのですから。

【ABC=当たり前のことを、ばかみたいに、ちゃんとやる】

 未来は大変だから勉強しろ、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくような人間でないと生きて行けない――そんな脅しに屈することはありません。

 世界は今と大差なく進むはずです。だとしたら今まで積み上げてきたような地道な学習を、子どもとともにやっていくだけです。
 大丈夫、本当に困難なことはエリートたちがやってくれます。これまでだってそうだったのですから。

(この稿、終了)