カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「因果応報と運命の大きなうねり」〜運命とのつきあい方 1

 土曜日の節分はいかがでしたか?
 私はブログにも書いてしまった手前、妻に豆を炒ってもらい、一人で元気よく、「鬼は〜〜そと!」「福は〜〜うち!」とやってきました。子どもいない家で、妻が声を出すことに非協力だとそういうことになります。
 また家の近所は20〜30年前の新興住宅地で、つまりどの世帯も同じように歳を重ね似たような家族構成になっていて、子どもと豆まきする家など一軒もないのです。そうなると近隣に響く追儺の声は私だけ、なにかこっぱずかしいような、消え入りたいような気持でした(けれどがんばった!)。

 豆まきは、自分が子どものころもやったのかもしれませんが、本格的に行ったのはやはり娘や息子が相応の年齢になったころからです。ただし子どもたちがつき合ってくれなくなっても続けたのには、そこに私なりの信仰心があったからなのかもしれません。 

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アルノルト・ベックリン『死の島、第2バージョン』

  ひとが歳をとるにしたがって信心深くなるのは、やはり自分の余命が見えて来て、来世への準備をしなければならない気になってくるからだ――と、若いころは思っていました。

 しかし自分がその「余命が見えて来て」の年になってわかるのは、
「そうではない、人が信心深くなるのは長く生きているうちに、奇跡だとか、運命だとか、暗合だとか、そういった人知では説明できないことを多く経験してしまうためだ」
ということです。

【大病するにも運がある】

 例えば20年前に大病した時も、病気が発見されたのがたまたま学校現場を離れて研究施設に赴任していたときで、病院に行くにも検査するにも非常に都合がよかった――これが現場の担任教師だったら一つひとつが一日延ばし、一週間延ばしになって手遅れになったかもしれません。

 また、転任に絡んで一家で妻の実家に転がり込んでいましたので、まだ幼かった子どもたちの面倒を妻の両親に見てもらえたということもありました。私が長期入院しても、あまり妻や子の負担にならなかったのです。ですから診断後の動きも早かった、迷う要素が少なかったのです。

 病気になるわずか3か月前、当時40歳にもなっていた私の弟がようやく結婚しました。そのあとで初めて知ったのですが、新婦(義妹)の親戚に、数年前までがんセンターで部長をしていたという人がいたのです。おかげであっという間に手続きが進み、機器や専門医のそろった大病院で最新の医療を受けることができたのです。

 不摂生をしていましたから病気になるのは仕方ありません。しかし“どうせ避けられない運命ならここで受けるのが一番”――そういう絶妙のタイミングで、病気になったわけです。
 弟も私のために結婚したようなものでした。

【『縁は異なも』のというのはほんとうだ】

 あるいは娘の選んだ婿のエージュですが、実家は東京から900kmも離れた遠隔の地にあります。私の家からいったん東京に出てエージュの家に向かうと1200kmの遠方です。

 なんでそんな遠くの人を選んだのか、親戚づきあいも容易じゃないじゃないと半分嘆いていたら、縁というのは不思議なものです。婚約前の顔合わせの際、エージュ父親から、自分の母(エージュの祖母)がお宅と同じ地区の出身で、子どものころ、母の実家を訪ねて何回か行ったことがある聞かされるのです。
 母親に当たる人の旧姓を聞くと、私の近所ではありふれた、というか、この地域に集中的にあってしかも全国的にはかなり珍しい苗字なのです。もう間違いありません。1200kmが一気に1km以内に近づいた話でした。

 さらに、(それとは関係ないのですが)エージュの母親の旧姓と、私の娘の旧姓(つまり私の苗字)は全く同じで、二人ともそこそこの呑兵衛なのです。両家総勢9名の中で、好んで酒を飲むのはこの二人の嫁だけ、つまりエージュの家は二代にわたって同じ苗字の呑兵衛をもらったわけです。
 すべて偶然ですが、ここまでくると何か運命的なものも匂ってきます。

【因果応報と運命の大きなうねり】

 そんな経験を重ねるうちに、いつしか私は神だとか天の摂理だとかいったものをがあるのではないかと疑うようになってきました。特定の宗教を信じるということでないのですが、この世には因縁というものがあり、因果応報も必然だと思うのです。
 人と人とのつながりはどこかで定められていて、必ず結ばれるようになっている。まじめに誠実に生きるものはいつか報われる、悪事は必ずバレる。

 ところがその一方で、スポーツマンやギャンブラーの言う「流れが来ている」とか「潮目が変わる」とか、「有卦に入る」とか「風が吹く」とかいった、運命の大きなうねりも感じています。もちろん逆の「流れが来ない」「無卦が続く」「逆風が吹く」ということもあります。

 つまり一方で因果応報を信じながら、もう一方で善悪に関わりなく人を押し流す大きな力があることも信じているのです。

 それは別の言い方をすると、結局は善い行いをする人は報われ悪人は懲らしめられるにしても、その間には紆余曲折があって必ずしも一直線に向かうわけではない、どんなにまじめに誠実に生きてもうまくいかない時はあるし悪が永久に栄えるように見える時がある、しかしそれも永遠に続くものではないといった感じです。

kite-cafe.hatenablog.com そうなるとあとは「流れ」の悪い時期の過ごし方、「潮目」が変わりそうな時の対応の仕方、さらに言えば「有卦に入っている」時の注意事項、そういったことだけが問題となってきます。

(この稿、続く)