カイト・カフェ

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「虎にならずに教師になった」〜教師の本懐

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【無の天才】

 昨日、生頼範頼の文章について紹介し、
 あると信じた、あるいはあって欲しいと願った己の才能に見切りをつけ、しかし今できることに誇りもち、精一杯努力しようとする姿勢は、そのころの私そのものでもあったのです。
と記しました。

 ではその直前の私はどういう人間だったかというと、ひとことで言うと自分を天才だと考えていたのです。
 自分には何かとてつもない天分があり、それを生かせば名声も金も地位も手に入る、高級車に乗り、高層マンションに住み、人も羨む生活をができると――。

 ただし問題があって、その天才が奈辺にあるか分からない、それが当時の最大の悩みでした。天才であるのには間違いないが、何の天才なのか分からない、どの分野なのか分からない、どんな職業なのか分からない――。

 ですから間違った道を選んで、自らの天分のないところで勝負をかけたり、金脈のない坑道でいつまでも掘り続けたりといった過ちをしないよう、いつも気にかけていました。その様子を客観的に見て、ひとことで説明しようとする人がいたら、きっとこう言ったに違いありません。

「要するに、何もしていないってわけだ」
 その通りです。

【虎にならず教師になった】

 当時の私にもそうした自覚はあって、中島敦の「山月記」にある、
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」
というフレーズは棘のようにこころに引っかかっていました。

(臆病な自尊心と尊大な羞恥心のために)
「進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった」 「己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった」
 そして、
「憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった」
「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

 しかし私は「山月記」の主人公のように“虎”になることはなく、教員になりました。
 教員は、自分に見切りをつけ、諦めたところから始めた仕事だったのです。
 

【キミは勝負していない】

 もちろんだからと言って何の希望も夢もなく、教師になったわけではありません。

 歴史が好きでしたから歴史を教えるのはやりがいのある仕事だと感じていましたし、やるからには誰よりも楽しい、よく分かる社会科教師になろうと、そのくらいは思っていました。

 しかし授業さえしっかりやっていれば何とかなるというほど、教師は楽な仕事ではありません。学級担任としてクラスを掌握できてこそ授業に邁進できるのです。
 そんな根性だから(傍から見れば)案の定、学級は荒れ、授業は崩壊していきます。

 思い遣りある先輩教師(皮肉ではありません)からは「Tさんは生徒と勝負していない」などと責められましたが勝負の仕方が分からない、武器もない、相手を倒す自信もない、全くの徒手空拳では勝負も何もなかったのです。自分が間違ってると分かっていてもどう修正したらいいのか分からない、どこから手を付けたらいいのか分からない、どういう方向に努力したらいいのかさえ分からない、そんな状況だったのです。
 

【独り立ち】

 しかしいつも言っているように、教職は職人芸の世界です。
 よほど適性に欠ける人でない限り、まじめに、誠実に努力していればいつかは最低限のことのできる一人前になっていきます。

 何年か苦労して年季を積むと、さまざまなことが可能となってくる。
 例えば毎日指導案を書くようにしてきた授業も、いつか手が抜けるようになります。特に中学校の場合、教科担任は同じ授業を違うクラスで1〜2回行うことができます。しかも毎年毎年同じ授業を繰り返すので、そのたびに少しずつ修正し、改良し、試すことができるのです。
 小学校の先生に比べるとはるかに教科指導のプロになりやすい(*1)。

 授業で手が抜けるようになると、その分を学級経営や総合的な学習の時間、特別活動の準備・計画にあてることができ、さらにその間に不測の事態(主として生徒指導)をたくさん経験し、対応力も身につけていきます。
 いつしか保護者たちと近い年齢になると、保護者対応もぐんと楽になります。
 そしてある日、突然、自分のスキルが人々の役に立つまで高まっていることに気づくのです。
(*1)小学校の先生の場合、毎年同じ学年だけを受け持つ「学年張り付き」の制度を取っている都道府県でない限り、同じ単元の授業を毎年行うということはありません。次にやるのは数年後といったこともありますし、うっかりするとその間に指導要領が変わって単元自体がなくなってしまうといったことだってあります。
 

【一人前の教師】

 それ以後、教師の仕事は俄然おもしろく、楽しいものとなっていきました。

「悪くなりたい子どもなんて一人もいない」 と言われように、たいていの不良行為は人間関係の中で追い込まれて行われるものです。あるいはしなくてもいい自縄自縛で自分自身を追い込んで起こる場合もあります。

 ですから生徒指導ではがんじがらめの子どもの心に無理やり手を突っ込んで、捻じ曲げるような場面がしばしば出てきます。しかも手を突っ込んだことを知られてはならない。
 そうした技術も身につけると、辛いと言われる生徒指導もむしろやりがいのある生活の柱になってきます。
 生徒指導と同じことを、時間をかけてじっくり行う道徳の授業も、好きで楽しみになってきたりしました。

 さらに長じて大部分の同僚が年下になってくると、今度は若い先生たちに助言できる立場となってきます。昔私に「勝負していない」と指摘したあの「思い遣りある先輩教師」と同じです。
 それは若い先生たちを助けると同時に、先生たちを通してより多くの生徒や保護者の役に立つということでした。

 私はこの世界での天才ではありませんでしたが、20年修行してようやく一人前の職人になることができました。もちろん“一人前”は「苦痛なく、最低限のことができる」という程度の意味ですが。
 そして若い時期に求めたすべてのものを、手に入れたような気持ちになったのです。
 

【教師の本懐】

 私はおそらく名声も金も地位も、高級車や高層マンションも、人の羨む生活といったものも、本気でほしかったのではありません。それらは単なる指標であって、これまで培ってきた技術や能力、努力の成果を、実感をもって味わいたかっただけなのです。
「20億円稼ぐヤツは、10億円稼ぐ人間の2倍偉い(賢い、才能ある、努力した)」
 そこまで単純ではありませんが、金や名声はわかりやすい能力の指標です。それがあるというのは能力が高いということ――私はそう思っていたのです。だから欲しかっただけで、教師として「人々の役に立っている(それだけの力を私は持っている)」という実感が手に入れば、あとのことはどうでもよかったのです(それにしても労働時間だけ考えても、「給与はいまの1・5倍はあってもいいな」とは常々思っていましたが)。

 しかしそれは私の個人的な体験でも特殊なことでもなく、この国に住むほとんどの大人たちに共通のできごとだったように思うのです。

 社畜(*2)などといういやな言葉ができて、一昨日の東京の帰宅ラッシュや昨日の出勤模様からサラリーマンを奴隷や家畜のように揶揄する風潮がありますが、何があっても定刻には会社につきたいと考えている人々の大部分は、飼いならされたのではなく、主体的にその道を選び取ったに違いないからです。
(*2)主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷《家畜》と化した賃金労働者の状態を揶揄したものである。「会社+家畜」から来た造語かつ俗語で、「会社人間」や「企業戦士」などよりも外部から馬鹿にされる意味合いを持つ。(Wikipedia