カイト・カフェ

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「勉強に関する三つの覚書」~無体な非難を繰り返す世間に反撃するために

【その1】

「6年も学びながら、日常会話すらもできるようにならない日本の英語教育はどうかしている」という言い方があります。しかしいかがなものでしょう?

[これに対する反論1]

 私は小学校1年生から高校の3年生まで、算数数学を9年間もやりながら、結局微分積分もできない大人になってしまいました。数列もベクトルも分かりません。

 今、確実にできる数学と言えば中学校1年生程度の問題ですが、中学校1年生程度の学力と言えば、英語も同じです。つまりたいていの勉強は、その後も使い続けないかぎり中学一年生程度のものしか残らないのです。現代国語はその後も伸びているはずですが、古典も漢文も、化学も生物も、みな同じです。英語教育だけが悪いわけではありません。

[これに対する反論2]

「日常会話すらもできない」と言いますが、日常会話以上に難しい会話はそうはありません。

 今日、私は野田総理大臣が輿石さんを幹事長にした話をし、運動会の話をし、発達障害とLDについて語るとともに、ロンドンハーツの「奇跡の一枚」について家族と話し、ハモネプについて語り、レディ・ガガについても会話しました。そう言えば指導案の書き方について妻と議論もしました。つまり、日常会話というのは世界のすべてについて語る会話なのです。

 それに比べたら専門会話など楽なものです。かつて航空管制官から話を聞いたことがありますが、彼いわく「私たち、普通の話はしませんから楽です」
 そんなものだと思います。

【その2】

「教師はこどもに『イジメは悪いことだ』ときちんと教えるべきだ」という言い方がありますが、そこには

  1. 子どもは先生の言うことをきくものだ
  2. しかし世の中からイジメがなくならない
  3. だから教師は子どもに『イジメは悪いことだ』と教えていないに違いない

といった誤った三段論法があります。

 そこにはまた、人間は「教わればできる」「分かればできる」「理解すればできる」というとんでもない誤解もあります。植木等の歌う「♪分かっちゃいるけど、やめられない♪♪」という人間の本質に迫る認識がありません。

 小学校の先生は算数に関して「分かる、できる、すらすらできる」という発達の3段階を常に意識しています。同じようにイジメ問題をはじめとする道徳や倫理についても、教員のやっている仕事は「分からせる」だけではなく、「(自分も)できるようにする」「すらすら(自然に)できるようにする」も含まれます。そして数学が苦手な子がいるように、道徳的・倫理的行動が苦手で「すらすら」できない子もいるのです。もう少し時間がかかります。

【その3】

 数学や国語を学ぶ活動を、中国の方は「勉強」とは言わず「学習」と言います。「勉強」は意味が違っていて、「強いて、勉めて〜させる」という強制を表す言葉なのです。昭和の八百屋さんが「しゃあねぇ、勉強させてもらいやしょう!(その値下げの強制、受け入れやしょう!)」と言うのはそのためです。

 その言葉が伝わった千数百年前の日本人にとっても、学ぶことは常に強制されることでした。ですからいつの間にか「学習」と「勉強」が同じ意味になってしまったのです。

 私は、学びはどこかで強制(勉強)を受け入れないとすぐに限界が来てしまうように思っています。子どもたちに「勉強しろ(運命の強制を受け入れろ)」と言うのは、そのためです。