「見なくてもできる。反射的にできる」〜携帯ショップと学校のプロフェッショナル

 妻がガラケーをトイレで水没させてしまいました。およそ10年間で4回目です。

 これまで、

1.急いで電池を抜く

2.開けられる蓋部分はすべて開く。

3.思い切り振り回して水を払う。場合によってはタオルでぐるぐる巻きにして脱水機にかける。

4.ドライヤーを当て熱で水分を跳ね飛ばす。

5.それでもだめなら冷蔵庫で凍らせる(フリーズ・ドライ)。

 数々の荒業で機器を直してきた(2008/7/28 コンピュータの治(直)しかた)私ですが、今回は妻がめちゃくちゃ忙しい時間帯に起きた事故で私の手元に届くのが遅れ、結果、約半日水浸しだった老齢のガラケーはついに最期の秋を迎えたのです。

 妻はメールと通話をガラケーで、ネットとその他はipadでという、少し前の「ちょっとカッコいい系IT環境」を生きていたわけですが、さすがにipadは持ち運びに不便なうえ、最近写真撮影の機会が増えてコンデジまで持ち出したので大変だったのです(機器に振り回される危機)。そこでそろそろスマホに買い替えようか話している最中だったので、ガラケーを失うこと自体に問題はありません。しかしデータです。

「(だから早くやっておけといったじゃないか!)」という言葉をじっと噛み殺し、水没ガラケーに取り組むこと2時間。

 画面はまったく出ないのですが電源を入れると振動があり、蓋の背についたサブスクリーンには正確な時間表示やバリ3のアンテナマーク、私が試しに送ったショートメールやEメールの受信表示があります。まず間違いなく本体は動いています。

 たまたまかつて息子が使っていた全く同型のガラケーがあったのでそこから液晶を取り外せないかと試したり(ネジがなんと+でも−でもなく☆型なのでダメ)、SDカードを差し込んでそれでデータをとれないものかと試したり、あれこれやってみましたが結局できませんでした。

「ま、“これから電話をくれる人、メールをくれる人とだけ付き合え”という神様の思し召しかもしれんね」

 妻と自分自身をそう慰めて、しかたなく携帯ショップへ出かけたのです。

【神業!!】

 事情を話すとショップのお姉さんは妻の水没ケータイをあれこれ動かし、

「あ、ほんと中身は動いているみたいですね」

「そうなんです。多分バックライトがダメらしくて、ホラ、それでも画面をよく見ると、何かが動いている感じがするでしょ?」

 実際、操作ボタンを押し続けると、黒い画面の中に幽かに薄い帯が下へ下へと降りていくのが見えます。ただしそれは息子の携帯の画面とは異なり、どう動かしたらいいのかわかりません。

 すると女性は左手に息子の携帯、右手に妻のものを持ち、左手の操作を頼りに右のものを同じように動かし始めたのです。

(あ、それ、オレもやったけど、だめだと思うよ・・・)

 そしていくらもしないうちに、

「これでできていると思います。最新データが残せるといいですね」

とか言って妻の携帯からSDカードを抜き出し、息子の方に入れていくつか操作し始めました。

「ああ、良かった。取り出せますよー」

 私は茫然、妻は騒然。

――ホントカヨ、見えなくてもできるのか・・・?

 そのあとのデータ移行も次々とこなし、新たに購入した妻のスマホに操作を加え、自分のタブレットにも何かを打ち込んで妻のサインを求め、その間に「あれ?指紋認証ってどうやるんでしたっけ」とかいった私の質問にも丁寧に答え、さらに「契約ってこんなに大変だったんだ」とびっくりするほどの作業をさっさとそつなく進めて、無事、妻はスマホユーザーとなることができました。

 まさにプロの技を見た思いです。

【夕食を食べながら】

 夕食を食べながら先ほどの女性の手際の良さを一緒になって褒めたたえていると、妻がふっとこんなことを言い始めました。

「私も若いうちから始めれば、あんなふうに速く機械の操作ができるようになったのかしら?」

「もちろん。若いころからじゃなくたって、今からでもショップ店員になれば嫌が応にもできるようになるさ」

「どうかな、それは。

 第一その前に、教師一本で何十年もやってきたのに何のプロらしいワザも身につかなかった・・・」

 私はちょっと考えてからこんな話をしました。

 世間の人たちが「教師は子ども相手の楽な仕事だから・・・」と誤解するのは仕方ないにしても、先生たち自身が自分の持つ技術について、まったく無頓着なのはいかがかと思うな。

 例えば授業で30人以上の子どもたちを、45分ないしは50分、黙らせたままで話を聞かせることができる、それだけでも大変な技術なのに。

 そりゃあ何かの理由で呼んできた講演会の講師だって1時間やそこらのあいだ、子どもたちに黙って話を聞かせることはできる。しかしその陰に担任の先生たちの大変な努力があることはキミの知っている通りだ。

 子どもたちは事前にたっぷり指導を受け、“どんなに退屈でも黙っていることくらいはできるでしょ”とか脅され、“分からないところは後から先生が解説してあげるから”と言い含められてその場にいる。

 もっともたいていの子どもは外から来た先生に対しては静かにしているものだけどね。どんな恐ろしい人かもわからないのだから。

 それでもとても持ちそうにない子どものそばには、担任がぴったりついて見張りをしていたりする。

 それに講演者たちが話すのは、もうあちこちで何度も話して練り上げられた珠玉の話題だ。

 落語の演目と同じで繰り返し練習し、修正し、高めてきた最高の作品を話しているに過ぎない。しかしどんな優れた落語家でも、同じように質の高い作品を100、200と持っているわけではない。

 ところでキミは、生徒の前で同じ話を何回やる?

 基本的には授業は一回だけだよね。そんな授業を毎日6時間、200日にも渡って行う――。

 もちろん遠足や運動会もあるから実質的な授業時間はその7割と計算してもいいけど、それでも年間1200授業時間。普通の時計で計算すると900時間だ。

 それだけ長い時間を、子ども相手に飽きさせず話せる人間が、いったい何人いると思うのだ?

 そういえば昔、小学校教師から中学校に鞍替えした先生が、こんなことを言ってたな。

「中学校というところはどんなに恐ろしいところかと思って戦々恐々としてやってきたけど、案外チョロイものだった、中学生といえど子どもは子どもだ、話もよく聞けば勉強もよくする、誠意をもってきちんと話せばどうにでもなるものだ――そう思っていられたのは4月いっぱい、ゴールデンウィークが開けたら大変なことになっていた。

 要するに4月いっぱいは様子を見ていたんだな、5月になったら本性が出た」

 “本性が出た”かどうかは知らないけど、“様子を見ていた”はそうかもしれないね。もっと好意的に考えて、新学期の「新しい学年で頑張ろう!」という気持ちが5月までは持たなかったということなのかもしれない。

 いずれにしろ毎日毎日5時間6時間という授業時間を、きちんと学習させているという当たり前の状況を、維持するためにどれほど高度で大量の技術が投入されているか、そんなことはいま言ったみたいな特殊な経験をした人でもない限り分からないことさ。

 企業で7年も働いて、教員になったと思ったらいきなりクラスが荒れに荒れまくった私にも分かることだけどね。

 そういえばこの間、清水アキラの子育てについて一緒に話したことがあったけど、あの時キミだって「保釈させないなんて、あれはないよね」とか言ってたでしょ。

 でも世間では保釈金を出さなかった清水アキラは偉い、立派だってことになってるんだよ。

 それをおかしいと感じるのが、プロとしてキミが培ってきた教育センスさ。

 私たちは子どもを叱らなくてはいけないときは反射的に叱ることができる。褒める時も間髪を入れず大げさなくらいに褒め、喜ぶことができる、しかも偽物ではなく、心からできてしまう、それが教師のプロとしての技さ。

 人間相手のことだから足らぬところもたくさんあるけどね、だからと言って卑下することもない。携帯ショップのお姉さんが鮮やかに機器を操作するように、私たちも鮮やかに授業をし、子どもを育てているじゃないか。

 人間相手のことだから足らぬところもたくさんあるけどね。