カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「完食指導はこうする」a〜学校給食の話④

 現職時代、私は給食を食べさせるのがとても上手でした。私のクラスでは一年を通じて残食が出ることはありません。残食率0%です。
 ある時など昼休みにしなければならない仕事があったのでわずか数分で食事を終え、いったん教室を離れて後で戻ってきたところ、食缶の中にはアジフライのしっぽがひとつ、ポツンと入っていただけでした。犯人は分かっています、私です。
 しっぽの付け根のところには、硬い骨があって食べにくいものです。だから私は残しましたが子どもたちは当然食べるものだと思い込んで苦もなく平らげてしまったのです。
 私は深く反省させられました。そのくらいすごかったのです。

 もちろん子どもたちが毎日完食するからといっても それだけで“虐待”に当たることはないでしょう。怒鳴ったり脅したりして食べさせていたわけでもありませんから。それどころか、毎日誉めるだけでそれを果たしたのです。そうした意味では担任である私自身も誉めていただかなくてはなりません。
 ただし、最初からうまかったわけではないのです。

 教師になって初めて担任したクラスの給食事情はほんとうに惨めでした。
 食缶は持って来た時よりも返す時の方が重いのです。カレーライスのような単純で人気のあるメニューの時は別ですが、普段はとにかくガンガン捨てられる。クソミソ一緒という感じであらゆるものが投げ込まれたからです。うっかりしていると食缶には入れてはいけないパンまで投げ込まれていたりします。給食室からは再三クレームが入りますが、それを押しとどめることはできませんでした。給食のガンガン捨てられるようなクラスでは普通の指示だって通らないようになっているのですから。
 なぜそんなことになったのか――簡単です。私がそれを許したのです。

 新しいクラスが始まって間もないある日、ひとりの子が「これ、不味くて食べられない」と言ったのです。一度は「頑張りなさい」と返したものの再び現れたときは「いいから食缶に捨てて片付けなさい」そう答えてしまいました。忙しくてじっくり指導するのが面倒だったのです。それとともに、そんなことを許したら何が起こるか、経験不足の私は知らなかったのです。
 翌日、別の子が「これ食べられない」と言って私の前に立ちます。次の日は3人の子が私の前に立ちます。
 学校で最も大切なのは平等原則です。Aに許したことはBにも許さないわけにはいきません。それをしない教師は「えこひいき」をする教師――古今東西もっとも嫌われ疎まれる教師なのです。もちろん例外もあってひとりを特別扱いする場合がないわけでもありませんが、それは“食物アレルギー”だとか“その日限定の体調不良”だとか、皆で納得し合える具体的な理由がある場合だけです。それ以外のケース――「お腹がいっぱいだ」「食べられない」「苦手だ」「不味くて食べられない」を一度でも許したらクラスの大半が給食を捨て始める。それが現実なのです。

 結局次から次へと「食べれません」が来て、やがては許可をうけることもなく捨て始めます。食べるのに飽きたり嫌いなものだったり、がんばる気力がなかったり、あるいは本当は食べたいのに周囲に押されて捨てざるを得なかった子もいたようです。
 もちろん結果に驚いた私は指導のし直しをしましたが、一度堤防に空いた穴は広がる一方でした。

 二度目のクラスの学級担任になったとき、心の中に立てた誓いのひとつは「給食を残さないクラスをつくる」ということです。
 給食という生活の最も基本的なところでわがままが許され自由気ままにふるまうようなクラスは必ず崩壊します。逆に一人ひとりが協力して一口ずつ頑張るようなクラスは、別のところでも協力し合えるものだ――そんな思いがありました。生活の最も基本的な部分での協力なのですから。

(この稿、続く)