カイト・カフェ

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「完食指導はこうする」b〜学校給食の話⑤

 昨日は、「二度目のクラスの学級担任になったとき、心の中に立てた誓いのひとつは『給食を残さないクラスをつくる』ということでした」と、書きました。しかしこれは驚くほど簡単なことでした。
 目標を達成するのに要した日数はゼロ。つまり初日からできたのです。
「すげえな、このクラス。残食がまったくで出ないや」
 ビックリして思わず感嘆の声を上げましたが、考えてみれば当たり前なのです。子どもたちは新しい学年、新しいクラスになって張り切っているのです。昨日会ったばかりの担任がどんな人間か分からないので警戒しているという事情もあります(ちなみに私は無意味なほど恐ろしい顔をしているのだそうです)。給食当番は汁の最後の一滴まで盛り付けようとし、食べる方は少しぐらい苦手なものがあっても頑張って食べきります。
 その姿は初めて担任した前のクラスの4月初頭にもあったはずですが、私は見逃がし、その重要性にも気づきませんでした。そもそも給食が学級経営の中核になるなど思ってもみなかったのです。
 しかし今度は違います。「給食を残さないクラスをつくる」と誓ってクラスを始め、いきなり残食率0%だったのです。見逃すはずはありません。大いに誉めます。

 そしてその翌日も残食率ゼロ。
「やっぱすげぇや、食べきれるんだ」
 二回目はかなり意図的です。三日目も四日目も――しかしさすがに第二週にはいるとアゴの出る子も出てきます。
 生徒たちもお互いの胃袋の実力を知りませんから公平に配膳してしまいます。そうなると大食いの子にとっては不足気味、小食の子にとっては過剰気味ということになります。二週目に入って多すぎる子たちの一部はそろそろ頑張り切れなくなるのです。ここからが担任の腕の見せ所です。
「そうか、大変だったね。でも今日までクラスとして米一粒残さず頑張ってきたんだ。申し訳ないけどもう一日、今日だけ頑張ってくれ、そうしたら明日から少しだけ少なく盛ってもらうようにするから。いいよなぁ、みんなぁ!」
 大声でクラスの承認を受けます。そうすることで“エコヒイキ”の誹りを受けることなくその子の給食を減らしてあげられます。“だってその子だって頑張ってきたのですから、そろそろ容赦してもいいじゃないか”がクラス共通の認識になるのです。
 また「『残食率ゼロ』はこのクラスがみんなで守らなければならない大きな価値だ」という気持ちも共有されるようになります。別に学級目標として決めたわけではないのに(これを学級目標にしようとすると大変な抵抗に合います)、知らず知らずのうちにみんなの大切な価値になってくるのです。

 もちろん高い緊張感をいつまでも持続することはできませんし、配膳の段階で量を減らしている子が出てくるので、そのころになると給食はどうしても余り気味になってきます。
 実際、例えば中学校1年生の場合、小学校時代と比べると1食の量もかなり多くなっているので無理もないのです。しかし「このクラス、スゲェな。残食がゼロだぜ!」も続けなくてはなりません。そこで詐術を使うのです。私が食べます。
 ちょっとお代わりをするふりをして大量に盛ります。それでも“お代わり”の子が少なくて食缶の中身が残るようなら「ああ、これほんとうにうめえなあ」とか言いながらさらにお代わりを続けます。大食いの子に手伝いを頼んだりもします。そして何とか食缶を空にするのです。

 毎回、ですから4月5月はどうしても太ります。体質的に太りにくい私が体重を増やすのですから「どれだけ頑張ってたべたんだ?」という話になります。
 そして私自身が限界だと感じたら、「6月からは絶対に元に戻すから」と給食室を拝み倒してクラス全体の量を減らしてもらうのです。実際、6月に入っても担任が頑張らなければならないということは小学校でも中学校でもまずありませんでした。
 2か月の間に誰を大盛りにして誰を少なくするのか、子どもたちもよく理解できるようになってきます。また2か月経てば2か月分の体の成長もあり、さほど頑張らなくても食べられるようになるのです。
 個人の食べる量に多い少ないはあります。しかしクラス全体では誰も苦しい思いをすることなく毎日残食率ゼロはできるのです。もともと小中学生がその年齢で食べきれるよう、クラスごと量を考えて配られているのですから。

 給食のように一人ひとりが違っているものをひとつにし、目標に向かってみんなで頑張れるクラスはクラスマッチでも合唱コンクールでも、そして高校受験でも圧倒的に強いのです。当たり前じゃないですか。