「攘夷派ヘンリー・ヒュースケンの死」~有志の人々とテロリスト群像」②

 純粋で献身的な若者が途上国の発展のために身を投じるということは簡単に想像できましたが、60歳を過ぎて、さらに80歳にもなる人が貧しい国のために汗を流しているということを知って驚かされました。わが身を恥じ入るばかりです。
 しかしそういう立派な人たちが殺されてしまった――バングラディシュを第二の故郷と考えるような人たちが、バングラディシュ人によって殺されてしまう。もっともそうしたことは決して珍しいことではなく、これまでも多くの発展途上国で起ってきたことです。そして日本人もかつて同様のことを行ってきたのです。

「1857年11月24日、今朝8時、天城山越えに出発。(中略)とある山裾をひと巡りすると、立ち並ぶ松の枝間に、太陽に輝く白い峰が見えた。それは一目で富士ヤマであることがわかった。今日はじめて見る山の姿であるが、一生忘れることはあるまい。この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。(中略)私は感動のあまり思わず馬の手綱を引いた。脱帽して、『すばらしい富士ヤマ』と叫んだ。山頂に悠久の白雪をいただき、緑なす日本の国原に、勢威四隣を払ってそびえたつ、この東海の王者に久遠の栄光あれ!」

 これは1856年、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに随行した通訳ヘンリー・ヒュースケンという若者が書いた文章です。ヒュースケンはアメリカ国籍を持つオランダ人でフランス語にも堪能でした。したがってオランダ語を中心に学んでいた当時の日本との交渉にはうってつけだったのです。気さくで剽軽で、明るい青年だったようです。初めて見た富士に心躍らせる様子が生き生きと描かれています。
 またヒュースケンは後に不平等条約として大問題となる「日米修好通商条約」締結の場にも立ち会っています。もちろんアメリカの側の人間ですから条約の締結を喜ばないわけはないのですが、
「世界のあらゆる大国の縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしようとしているのだ。
 しかしながら、いまや私がいとおしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか?この文明はほんとうにお前のための文明なのか?この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思えてならないのである」
 ある意味で攘夷思想というのはこういうことです。国の文化や国民を惜しみ、それが蹂躙されることに不安や怒りや憤りを持つことです。その意味でヒュースケンはまさに日本の攘夷派だったのです。その彼が1861年、尊王攘夷派の薩摩藩士に惨殺されてしまいます。暗殺者は今回のバングラディシュの犯人よりは多少年上の20代後半の若者たちです。

 ヒュースケンがそのような人だと知っていたら、果たして薩摩藩士たちは彼を殺しただろうか? それは翻ってあの夜ダッカのレストランに集まっていた日本人がバングラディシュを食い物にする人たちではなく、バングラディシュの発展に貢献しようとする有志の人々だと知っていたら、果たして殺されただろうかという問いと重なります。

 答えは前提を変えることによって変わってしまうでしょう。
 容疑者たちが本物の原理主義者で世界を13世紀に戻そうとしているなら迷わず殺します。コンクリートの橋や道路をつくること自体が悪なのですから。
 そうではなく、発展的に国を良くしていこうとする人々なら対応の余地があります。もしかしたら方法が違うだけで目的は一致しているかもしれないからです。
 恐れるだけでなく、私たちは彼らを知ることをしなければなりません。

(この稿、続く)