1960年の終盤、「学生運動武闘派」か「ヒッピー・フーテン系ラブ&ピース」か、どちらにするか迷った私は、結局より頭の良さそうに見える「学生運動」系を選んで、角棒担ぎに大学へ進学しました。70年代前半のことです。ところが行った大学には学生運動の匂いすらなかった・・・いや、正確に言えば多少の残り香くらいはあったのですが、各党派による激しい勧誘(オルグと言った)とか、チラシとか立て看板とか、ヘルメットだとか角棒だとかはほとんど見かけなくなっていたのです。そしてほとんど同時に、ヒッピー・フーテンも消えてしまいます。
【学生運動の終焉】
ひとつの理由は70年闘争です。1970年の日米安保条約改定に向けて68年69年と反対運動は極限まで盛り上がったはずなのに、結局は何も変わらなかった。どんなに騒いだところで社会は少しも変わらない、何をやってもダメだという思いが学生を運動から遠ざけました。
荒井由実作詞作曲の「『いちご白書』をもう一度」には、
就職が決まって 髪を切ってきたとき
「もう若くないさ」と君に言い訳したね
という歌詞がありますが、まさにそんなふうにして彼らは去って行ったのです。
世代的には「団塊」と呼ばれる人々です。
私はその次の世代でいわば「遅れて来た世代」、あるいは「置いてけぼりを食らった世代」なのかもしれません。
もちろん学生運動からの撤退を潔しとしない人たちもいました。
しかし70年安保の敗北を越えて戦う人たちは日本赤軍事件や連合赤軍事件のような一般人には理解できない事件を繰り返し、組織内での無残なリンチ事件が明らかになったり三菱重工爆破事件(1974)のような無差別テロを起こすに至って完全に社会の支持を失いました。もう誰も学生運動などには見向きもしなかったのです。
【1970年のこんにちは】
学生たちがその日に向けて戦ったまさにその1970年、
こんにちは、こんにちは、西の国から〜
こんにちは、こんにちは、東の国から〜
とまるっきり屈託のない歌とともに、大阪万博はスタートして日本の空気はいっぺんに変わってしまいました。
先日のNHK朝の連続ドラマ「べっぴんさん」では、万博の閉会式に現れた実業家がこんなふうに語る場面がありました。
「この万博を境に、日本は変わる。進歩するんだよ より速く、より多く、より便利に。すべてにおいて効率的にだ」
実際、日本はそのようになりました。
しかしその前にとんでもない「油断」があったのです。
(この稿、続く)