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「深く広がりのある内容が一行で書かれてしまう教科」~だから社会科は難しい①

 だいぶ前のことですが、ちょっと覗いたクラスの黒板がまだ消し残っていて前の時間の授業の様子がうかがえました。社会科の歴史分野でした。ざっと見、これが一時間で教えるべき内容かと思うほどの大量の情報量です。しかしそれが「一時間で教えるべき内容」なのです。
 黒板に書かれていた単語がそう多かったわけではありません。しかし社会科の用語と言うのはそれぞれが深い意味を持っています。

 例えば「1858年 日米修好通商条約を結びました」とあるだけでも、ことは単純ではありません。その中身である治外法権はどういう意味で、なぜそんなものが必要で具体的に日本にとってどういう不利益があるのか、それを全部理解しなくてはなりません。関税自主権のないことも同様に学ばなくてはならない。そしてこの不平等条約の改正が明治の大きな目標となりそのためにすべてが行われたことも理解しなければならない。だから「1858年 日米修好通商条約を結びました」は一行なのにとてつもなく内容の大きな一行なのです。

 さらに例えば、「福沢諭吉は『学問ノススメ』を書いて学問の重要性を説いた」とあったにしても、これはこれだけで済みません。この書は「天は人の上に人をつくらず」の言葉で有名ですが、福沢は決して人間の平等を説いたのではなく、その続きを読むとこんなことが書いてあるのです。

 天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずという。ところがいま、広くこの社会を見渡すと、賢い人がいたり、愚かなる人がいたり、あるいは貧しき人、富める人、身分の高い人、低い人もいて、人の生き方に雲泥の差があるのは、なぜだろう。その理由はじつにはっきりしている。『実語数』(江戸時代に寺子屋で使った教科書)という本に、「人、学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあるように、賢い人と愚かなる人との差は、学問をしたかしないか、によって決まるのである。

 だから学問をしなさい(=「学問ノススメ」)となります。つまり福沢以降、学問は出世の道具とな、日本人のその後の生き方を決定的に運命づけたのです。私が子どもの頃は「しっかりと勉強をして、いい高校からいい大学に進みいい会社に入る」などといった言われ方をしましたが、それはまさに「学問ノススメ」の思想なのです。
 しかし中学校の教科書では「福沢諭吉は『学問ノススメ』を書いて学問の重要性を説いた」で終わりなのです。これでは覚えようがありません。

 また例えば高校の教科書には初代アメリカ総領事官タウンゼット・ハリスの秘書兼通訳であったヒュースケンの殺害事件が載っています(今はないかな?)。当時の尊皇攘夷派によるテロのひとつで、度重なる外国人襲撃のために幕府は賠償に苦慮するわけですが、だからといってここに「ヒュースケン」という個人名が出てくる必然性はないはずです。トムであろうがビルであろうが、名前なんてどうでもいいはず(と高校生の頃は思った)。ところがこのヒュースケンという人、どうやら幕末の風物史を語る上では外せない人らしいのです。

 彼の書いた『ヒュースケン日本日記』は第一級の資料です。
 28歳で殺されたこの若者の日記には、次のような表現があるそうです。
「この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には(なんということだ)この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」

 ヒュースケンは日本史上とても重要な人です。しかし教科書では「初代アメリカ総領事官ハリスの秘書兼通訳であったヒュースケンが殺された」で終わりです。これではやはり覚えようがありません。
 だから社会科は難しいのです。