昨日の続きです。
(イリヤ・レーピン「パリのカフェ」)
「ブラック企業」という言葉にもいろいろな概念があって、広い意味では暴力団などが運営する反社会的あるいは非合法な企業とか、最初からあきらかに使い捨てにするつもりで雇用し過重労働や違法労働を繰り返す企業とかもあるけど、ここではいちおう、普通の企業・組織でありながら過重労働や長時間労度、あるいはパワハラが常態化している企業・組織のことを考えることにする。
具体的に言えばかつての「電通」のような企業だ。あるいは都府県によっては平均労働時間と過労死基準とが同じになってしまっている“学校”という組織も、その中に入ると思う。要するに仕事内容はまっとうでも、膨大な超過労働が行われ、しかも給与に反映しない、パワハラや大量のクレームに曝され、神経の休まる暇もない、そんな企業や組織のことを、とりあえずここでは「ブラック企業」と呼ぶことにしよう。
その上で、
まだ学生のキミたちは、月80時間100時間といった超過勤務、しかもその大部分が給料の支払われないサービス残業だなどと聞いたりすると、世の中どんだけ厳しいんだ、社会はそんなに恐ろしいところかか、とすっかりビビッてしまうかもしれないが、まあ聞いてくれ。これにはちょっと面倒くさい、けれどある程度納得のできる、困った事情があるのだ。
【労働という国民病】
日本人がよく働く、という話は聞いたことがあるね。
エスニック・ジョークに
もしも、明日世界が滅亡するなら
イタリア人は、最後のベットを共にする女性を探す。
ドイツ人は明日までに新技術を開発して滅亡を防ごうとする。
アメリカ人は軍事力で何とかしようとする。
フランス人は世界の終焉を芸術にしようとする。
日本人は、会社に行って仕事を明日までに終わらせる。
というくらいだから。
働くことは日本人にとってもう国民病のようなものだ。
しかし日本人がそうなってしまったことにはたくさんの理由があるんだね。
【稲作の民族】
例えば、日本人は農耕民族だよね。しかも稲作中心の。
その稲作というのが結構大変で、だって水田って斜めの土地じゃダメでしょ。田んぼの一枚一枚は必ず水平じゃなくちゃいけない。しかも田を満たす水も、ほとんどの場合は遠くから引いてこなくちゃいけなかった。
つまり日本の場合、稲を作ろうとしたら最初からみんなで協力して、土木工事をするところから始めなくちゃいけなかったんだ。一家族や二家族ではとてもできることじゃない。
その点で大陸の、広大なデルタ地帯のどこかを区切って田んぼにすればいいといった国とは、全く違っていたんだ。
みんなで働くことに最初から慣れていたんだね。
しかしそれは裏返して言えば、互いに働いている様子がよく見える社会、だから怠けることを許さない社会、働かざる者は食うべからずの社会だともいえる。
それが一つ。
【汗が尊重される世界】
もしかしたらこれは武士道の影響かもしれないけど、この国には額に汗して働くことが尊いとされ、職人や農民が尊敬される文化がある。そのことも私たちが働くことに熱心な理由のひとつなのかもしれない。
江戸時代は武士が威張っていて農民や町人は馬鹿にされていたと思われがちだが、武士道の基本的な考え方は、「何も生産していないのに農民や町人から税を取り立て、無為に生きている自分たちはどう生きるべきか」といった疑問から始まっているんだ。
そこには生産者に対する負い目があり、負い目があるからこそ侍は清く正しく、農民や町人のお手本になる生き方をしなければならないと考えたらしい。そのことがやがて明治維新になって汚職をしない官僚を生み出し、日本の近代化をあと押ししたことは有名だよね。
ところがヨーロッパなどでは、額に汗すること自体が恥だといった文化があるようなんだ。
サービスとサーバント(奴隷)は語源が同じで、両方とも下々の者の行うことだ。だからフランスあたりの店員は、高慢な表情とぞんざいな態度をとらないと、自分が保てないのだという話を聞いたことがある。
また最近、どこかの国の一流ホテルで、清掃係がトイレで使った雑巾でコップを拭き、客の使った歯ブラシをそのまま包装し直してまた使うといった実態が放送されたけど、それだって似たような考え方なのかもしれない。
彼らは恥ずかしい仕事をしている、だからいつも不機嫌でいい加減なのだ。
しかし日本は違う。
外国から来た観光客が、日本ではデパートで何も買わなくても王侯気分が味わえると言って、店員さんの腰の低さ、柔らかな物腰、笑顔、挨拶などに感心したりするけど、あれは店員さんたちが奴隷気分になって“お客様は神様です”とかしずいているからではないだろ?
有名な新幹線の車内清掃、あの芸術的な仕事も、係の人たちが忠実で優秀な召使みたいだからじゃないよね?
みんなその世界でのプロだからだ。一流だからだ。
仕事に誇りを持っていて、よりよく達成したいと考えているからだ。そうだろ?
【誇りある仕事】
ウチの近所に事務所を持たない土建屋のおっちゃんがいてね、一度銃刀法違反で刑務所に行ったような人だからそのスジの人だと思うのだけれど、一緒に飲んだことがある。
毎朝暗いうちから若い人を集めて自宅から現場に行く、その男の子たちが見るからにワルそうで、学校では私たちの仲間を困らせていたろうなあと思うような子たちばかりで、そこで、
「やっぱり金の力って凄いですよね。学校ではとてもじゃないけど真面目にやりそうにない子たちが、あんなに早くから出てくるんだから」
そう言うとおっちゃんは、
「Tさん(私のこと)それは違うぜ。金だけだったらもっと稼げる仕事はいくらでもある。土建の仕事を続けるには夢がなくちゃいけねえんだ。
仕事が嫌になった若ぇ衆は、オレが現場に連れていく。そして『この、オマエがつくった護岸はオマエが死んだ後もこの街を守ってく』って、それがわかるヤツだけがこの仕事を続けていけるんだな。――まあ、下水の時はダメだったけど、地面の下で見えねえから」
「地面の下で見えねえから」には笑ってしまったけどよくわかる話だ。
私は金のことを言った自分が恥ずかしかった。
わかるね。こんなふうにみんな自分の仕事に誇りを持っている、それが今の日本の労働者の姿なんだ。そしてその誇りこそが、企業や組織がブラック化していく大きな原因のひとつだとも言えるんだけど、今日は時間がなくなった。続きはあした話そう。
(この稿、続く)