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「週刊『デス・ノート』とショーン・K」~あと出しの非難の話

 先週の水曜日、新聞広告での週刊文春の見出しを見ていたら「ショーンKの嘘」というのがあって、「お、ショーンさん明日から大変だぞ」と思っていたら明日どころではない、その日の朝のワイドショーからニュース番組はこの話題でもちきりになってしまいました。

 ショーンさんの対応も早くていきなり全面降伏。中途半端な言い訳はせず、あっという間にすべての番組から降板ということに相成ってしまいました。もちろんショーン・川上が男らしいという話ではありません。
 宮崎謙介衆院議員のようにトボけてもダメで、ベッキーのように舐めた対応をすれば二の矢、三の矢で息の根まで止められかねません。そのことは芸能人、政治家、すべての人々が思い知らされたことです。
 デス・ノート「週刊文春」に睨まれた以上、不正直は命取りになります。少なくとも誌面に出た事実についてはさっさと認めて謝っちゃう、それしかありません。そうすればそれ以上、攻められることもないはずです。

 おかげでさっさと認めたショーン・マクアードル・川上氏の評判はすこぶる良く、今週になって、詐称はあったがコメンテーターとしては非常に優秀な発言をしていたとか(私はそうは思わない。世の中の他のコメンテーターと同じくらい平凡なことしか言っていなかった)、大変な努力家だったとか、腰の低い誠実な人柄だったとか、もう明日にも復帰のレールが敷かれそうな雰囲気になっています。
 中にはこんな記事もあって、
 今頃になって「そういえば、彼のコメントは分かりにくかった」「薄っぺらいコメントだと前々から思っていた」と(中略)非難をするということは「コメントはよく分からなかったけど、経歴のしっかりした人だから、考えもせず話を信じていた」という、肩書きに目がくらんだ自分を露呈するようなものではないでしょうか。
 そこまで言うのはいかがでしょう。
 説得力を持たせる材料として、肩書きが有効なのは間違いありません。ですが、それを妄信したあげく、真実が露呈したら「やっぱりね!前々からさ〜」と態度を変えるのは、我々日本人の学歴&肩書きコンプレックスが透けている気がしませんか。

 日本人に学歴&肩書コンプレックスがあるかどうか、あるとしてもそれが日本人特有のものかどうかは別として、しかしあの肩書がなくてもショーン川上氏が東京のキー局の看板ニュース番組のコメンテーターとして活躍できたかどうかというと、そんなことは絶対にありません。甘いマスクの声の良い人間など、放送局の内外にいくらでもいるからです。
 そして甘いマスクと声の良い人間が世の中にいくらでもいるように、社会全般に広く見識を持ちよく努力する人間もいくらでもいます。しかしテンプル大学で学位取得後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得、パリ第一パンテオン・ソルボンヌ大学に留学して世界の七か所でコンサルタント業務を続けているハーフでテレビに出られる人は、そうはいない。
 ショーン・マクアードル川上氏がコメンテーターとしてテレビで活躍できたのは、まさにその華々しい学歴と経歴があったからで、学歴や経歴、肩書に目がくらんだのはテレビ局です。そのテレビ局が何の反省もしていないというのに、私たちがコンプレックスの持ち主として糾弾されてはかないません。

 テレビは反省する代わりに、「だけどショーンKはきちんとしたことを言っていたし、基本、いいやつだったよな」と擁護(自分たちのことも)し始めていますが、彼が再びテレビで偉そうなことをしゃべることはあってはなりません。彼に学歴や十分な職歴がないからではなく、嘘つきだからです。
 そんな単純なことも忘れられそうになるのは、ほんとうに情けない。

 それにしても週刊文春、すごい! 私も何か書かれないように注意しておきましょう。